立花隆

 
多年にわたって、本を書く仕事をしてきたが、本書は、自分が書いた本の中でいちばん気に入っている本である。先日読み直してみて、よくぞこれだけの連載をこの年齢(四十三歳)でしたものだと思った。しかし、考えてみると、それは第一稿にすぎず、それから、それを完成稿するまでに二二年かかったという言い方もできる。別の言い方をするなら、連載を終えてから、それを完成稿にするために、ほぼ半生を私はかけたことになる。

2 thoughts on “立花隆

  1. shinichi Post author

    エーゲ 永遠回帰の海

    by 立花隆

    photograph by 須田慎太郎

    カラー写真で読む、古代ギリシア文明・思索紀行。哲学発祥の地ミレトス(トルコ西岸)で「最初の哲学者」タレスの足跡をたどり、女人禁制の宗教国家アトス(ギリシア北東部)でキリスト教の原型にふれ、シチリアの古代神殿の遺跡で「記録されざる真実の歴史」について思いを馳せる。神とは何か、歴史とは何か、哲学とは何か。天才カメラマン須田慎太郎を相棒に、立花隆の時空を超えた哲学的思考が爆発する!

    写真を眺めているだけでも楽しい。

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  2. shinichi Post author

    突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思いちがいをしていたのにちがいないと思いはじめていた。
    知識としての歴史はフェイクである。

    最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。

    自分の前に存在している物体自体が正しい現実なのか、その存在を抹消してしまった歴史が正しい現実なのか。
    むろん疑問の余地はそこにない。

    記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。

    この地を旅する者は、空間を超えて旅すると同時に時間を超えて旅しなければならない。
    クレタ文明、ミノア文明などは、いまから四千年、五千年前にさかのぼる一方、東ローマ帝国の遺跡などは、まだ千年もたっていないものがある。時間差数千年の歴史が隣り合っていたり、あるいは同じところに積み重なっていたりする。

    フィリピだけではない。このあたりのどの町をとってみても、歴史のひだをかきわけかきわけのぞいていくと、何層にもわかれた歴史の地層のごときものが観察できて興趣がつきない。歴史だけではない。そこに、神話や伝説もまた積層されている。

    ターレスの「万物のもとは水」というコメントの内容が高く評価されて、彼が哲学の始祖呼ばわりされたというよりも、ターレスのこのコメントによって、一つの独特なものの考え方の範型が示され、それに刺激され、それにならって、あるいはそれに反発したりして、ものごとをより深く考え、議論をたたかわす一群の人々が生み出されたこと、その全体が評価されて、ターレスが哲学の始祖呼ばわりわれるようになったということだろうと思う。
    ここで大事なのは、哲学は、単独者の個人的な知的営為として成立するのではなく、複数者の交わす議論の中に成立するということである。
    つまり、哲学というのは、本質的にディアレクティケなのである。

    遺跡を楽しむのに知識はいらない。黙ってそこにしばらく座っているだけでよい。
    大切なのは、「黙って」と「しばらく」である。
    できれば、二時間くらい黙って座っているとよい。
    そのうち、二千年、あるいは三千年、四千年という気が遠くなるような時間が、目の前にころがっているのが見えてくる。抽象的な時間ではなく、具体的時間としてそれが見えてくる。
    千年単位の時間が見えてくるということが、遺跡と出会うということなのだ。

    要するに、私がミレトスで見た荒涼たる風景は、その時代の世界大戦に敗北して滅亡したかつての超大国が、敵国に蹂躙され、徹底した破壊を受けた後の荒廃の風景だったのである。いってみれば、1945年の日本全土に広がっていた焼け跡風景の古代版だったのである。

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