尹雄大

ある意味で、滑らかに話せる人というのは、独自の言葉でしゃべる試みとは無縁だから可能だとも言える。
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みんなと同じという独自性のなさは、自分という存在の凡庸さを思わせる。けれども、そのように自らを卑小だと思ってしまうことそのものが、社会が期待するような傷つき方や憤懣を育む文法のなせる技だとしたらどうだろう。
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この島に住んでいると感じるのは、絶え間なく「普通」についての教育を受け続けていることだ。脱稿やメディアに限らず、僕らが普通だと信じてやまない価値を参照し、その通りに行動することによって「普通」は無自覚に学習され続けている。その教育の結果、もたらされるのは「同化」だ。
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教えられた通りの考えを身につけ、それによって善し悪しでジャッジする。それを普通の感性と言うのであれば、いずれは新しい出来事が起きても、従来の考えの内に収めることに満足を覚えるだろう。だが、それとは別の道がある。教えられたことをもとにして独自に学び、自らを育てていく。そこで初めて自立に向けた歩みが始まる。

2 thoughts on “尹雄大

  1. shinichi Post author

    つながり過ぎないでいい——非定型発達の生存戦略

    by 尹雄大

    コミュニケーションや感情表現が上手できないと悩んだ著者はやがて、当たり障りなく人とやり取りする技術を身につけていく。

    だが、難なく意思疎通ができることは、本当に良いこと、正しいことなのか。
    なめらかにしゃべれてしまうことの方が、奇妙なのではないか。

    「言語とは何なのか」
    「自分を言葉で表現するとは、どういうことなのか」

    自分だけのものであるはずの感情を、多くの人に共通する「言葉で表す」ことなど、どうしてできるのだろうか。
    そして、人に「伝える」とはどういうことなのか。

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    1章 それぞれのタイムラインを生きるしかない——定型発達という呪縛h2>

    2 非定型に発達しているだけ

    いろんな背景を持つ人の話を聞く体験を経て知ったのは、「人とうまくしゃべれてしまっていることがそもそも奇妙なのではないか」という疑いを多くの人は持っていないということだった。「話せるはずなのに、そうはできていないのはなぜなのか?」という問いの立て方をしている。しかも「しゃべれてしまっている」が「相手のことがわかるはずなのに」という期待と対になっている。これは本当に不思議に感じる。僕にとっては「しゃべれてしまっている」という状態こそがいまなお謎だからだ。

    一般的には「人というのは、なんとなく話せるようになるし、なんとなく話す中でなんとなく相手のことがわかるものだ」という理解がされている。それも一応わかる。だから「なんとなくできるようになる」といった成長曲線を描くパターンを「定型発達」と呼ぶのもうなずける。

    ただし、その肝心の「なんとなく」がわからないし、僕みたいに「この歳になればこれができる」といったマイルストーンを達成できない人がいるのも確かだ。「一般的に人間とはそういうものだ」の視点から見ると、定型発達できない側を「定型発達障害」と呼んで差し支えないと考えるかもしれない。でも、それは〈非「定型発達」〉な状態なのだと声を大にして言いたい。

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    3 定型発達人の常識と非常識

    「できない」という必然性がある

    定型発達者の文化では「できる」がひどく尊重されているけれど、そこで見逃されているのが、「できない」という必然性だ。できないにはできないなりの理由が、ストーリーがある。その必然性は定型発達できてしまう文化圏の人からは訳がわからないものに見える。

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    4 現実はいつもまだら模様

    統合された人間観をもとに生きている

    この現実と呼ばれる世界を生きる中で、僕らは知らず知らずのうちにこういうモデルを想定しているはずだ。

      自己という主体があり、それは分割されていない個人である。
      個人が生きて活動することで世界が認識される。また世界に働きかけることで物事が実現する。

    「うまく」を前提にした生き方の基礎には、「人というのは統合されているはずだ」という人間観がある。だけど、まだらの世界は、そうではない。自分がまとまったひとつの主体とは到底思えない出来事がたくさんあった。

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    できない状態をきちんと体験する

    感情教育の目的はバラバラを統合するという、世間で出回っている人間観を獲得するためのタイムラインに乗るところになかった。統合をまぬかれ、まとまらないままでいるために僕は自らに教育を施していったのだと思う。

    僕たちは絶え間なく「普通」についての教育を受けている。学校やメディアに限らず、普通だと信じてやまない価値に伺いを立て、その通りに行動することによって「普通」は自律的に学習され続けている。世間がまだらに見える視点からすれば。その教育システムは「同化」でしかない。そう直感している。日常の中で、僕がひとつの主体に回収され、統合されるのは堪え難い苦痛であり、何より狂気なくしてありないと思っている。

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    2章 胚胎期間という冗長な生き延び方

    3 感情で話すことの困難さ

    同時代の感受性から遅れてみる

    人がコミュニケーションという他者との関わりの中で望むものは、共感すらできないところにある自身の中にいる「知らない自分」との出会いだ。そこに自身の可能性を感じる。それは本人が口にする言葉の群れには姿を容易に見せない。自覚しないところに潜んでいる。言葉を介した対話だけに注目していては、そこまで深く潜ることはできない。共感は共感できなさに手を伸ばすためにある。共感それ自体に意味があるわけではない。

    本当に話さなくてはならない、聞かれなくてはならない話は、安易な共感を拒むだろう。どこかで僕らは微笑みやうなずきに出会うたびに、「何もわかられていない」という思いをたくましくしているのではないか。共感や意味の理解のその先に向けた言葉というものがあるはずだ。

    (・・・)

    共感し、気持ちに寄り添う。傾聴し、感情と向き合う。この時代が要求する感性や同世代の価値観をあまり共有しないほうがいい。あえて遅れようと作為的にするわけではないが、共有を図ろうと迫ってくる早さを遅くするくらいの距離を保つ方が自分を保てるのではないか。長らくぼーっと過ごしてきた僕はそう思う。

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    4章 自律と自立を手にするための学習

    2 鏡越しの姿は本当に自分なのか

    弱さを排除し、強さを獲得する。そうした道のりを進んでいくのが人格形成であり。「自己同一性」(アイデンティティ)を得る過程でもあると考えられている。そういう人間像をこしらえている意味が時折わからなくなる。実体にそぐわない使い勝手の悪い発想だと思えて仕方ないからだ。

    僕らはなぜか自分の身体がひとつの存在で、それを通して物事を理解し、感情に働きかける、といった一連の関わり方を疑わなかったりする。

    (・・・)

    アイデンティティという「自意識が作り上げた像」をどうして信頼するようになったのだろう。自意識が発達し過ぎて、自分の内面に対してすら直観が働かなくなったせいなのか。「自分の思う自分が自分なのだ」と確認するような仕草は、たとえて言えば鏡に映った姿を自分だとするようなものだ。

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    罪悪感なしに否定する

    一般的には鏡に映った自分が自分だと確かめる行為が当たり前だし、その感性を標準として生きている。だから鏡像をもとにした他者評価を踏まえない言動は「利己的」と呼ばれ、「主観でしかものを言わない」と非難され、協調性を求められる。

    (・・・)

    僕らは自分の直観と体感覚と体験を顧みず、他者の考えを無闇に信頼し、自分を否定する行為を重ねた分だけ明晰さが向上すると勘違いしがちだ。いわば自分を拒み、他者に従うやり方に長けている。それを止めるには、とりあえず自分を認め、他人を受け入れない態度が欠かせないだろう。

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    拒絶に善し悪しはない

    他人を拒むことに気まずさを覚えるとしたら、その気まずい感情と感覚をよく観ないといけない。そもそも拒むこと、NOと宣告することがよくないという先入観をどこで身につけたのだろう。拒否は単なる拒否であって善いも悪いもないはずだ。だけど、そこに善し悪しをつけているとしたら、何が原因だろう。

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    5章 絶望を冗長化させる

    1 誰にとっての客観的事実なのか

    なぜ「ほとんど同じ」ばかりに注目するのか

    ある意味で、滑らかに話せる人というのは、独自の言葉でしゃべる試みとは無縁だから可能だとも言える。没個性を恐れないタフさを備えているかもしれない。それに同時代の文法をやすやすと口にするという呪いにかかっていることすらいとわない。あるいは気づけない鈍さがあるからこそ言葉が社会と現実をなだらかにつないでいるのかもしれない。

    みんなと同じという独自性のなさは、自分という存在の凡庸さを思わせる。けれども、そのように自らを卑小だと思ってしまうことそのものが、社会が期待するような傷つき方や憤懣を育む文法のなせる技だとしたらどうだろう。当たり負けしない地力はこういうときにこそ必要なのだ。

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    内語という最も身近で謎の言葉

    こもって意味にならない音。心の中に確かにモヤモヤとしたものがあると感じてはいても、はっきりと名指すことのできない、いわば感覚以前の何か。それが曖昧模糊としたものを「内語」と呼んでもいいのかもしれない。

    (・・・)

    僕はこのもつれた音を内語として見出した。そしれ、これこそが第一言語ではないかと思う。日本社会に生きていると第一言語が日本語になるし、それを誰も疑わない。しかも第二言語を用いて話す機会も少ない上に、なまじ日本語が互いにしゃべれるものだから言葉は通じるはずだし、「わかってくれるはず」という期待を相手に持ってしまいがちだ。

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    日本語に馴れてしまわない

    その幻想を背景にして、共感をやたらと重んじる文化が育成されたのだと思う。あるいは「普通は————」といった話法をすらすらと用いたり、他人と自分とは異なる存在ではないく、みんな同じなのだともたれかかることを良しとする常識を疑わないようになる。

    だが、内語が第一言語になると、それを日本語という第二言語に翻訳する工程が生じる。必然的に個人と言語の間に緊張が走る。それまで日本語を自然にしゃべれていると感じていたのは、日本語への馴れ馴れしさがそう思わせていただけで、日本語の側からすれば違うのかもしれないとわかってくるだろう。つまり日本語が他者として姿をはっきりと示してくる。

    内語と日本語の距離が明らかになると、これまでの僕は内語を翻訳せずにそのまま出そうとしていたのだと気づく。そうではなく、まず日本語に内語の意図をわかってもらう必要がある。

    **

    理解を阻む絶対的な孤独

    悲しみという他者

    幼い頃から感情と自分のあいだに距離があった。だからなのか。四十一歳から始めた感情教育を経て知ったのは、感情の向こう側を見るのは容易だということだった。自分を襲う悲しみについても「悲しい」という状態に埋没しないで、感情の出所を見つめることができた。

    (・・・)

    直観的にわかっていたのは、たとえば「僕の悲しみ」というとき、そこに「の」という所有格があることだった。

    (・・・)

    内語に接近する上では、こうした感覚と感情と言葉の隔たりをわきまえているかどうかは、かなり重要なはずだ。感覚と感情と言葉の根元にある他者としての内語は、どれだけ密になろうとしてもすれ違うしかない存在だ。内語は僕らの内にいる絶対的な孤独の化身だ。

    絶対的孤独であるのだから、そもそもが他人と共有できない言語だ。内語の外にある日本語は他人と分かち合えるだろう。けれども、特に胚胎期間を必要とする人たちの一人ひとりの抱える膨大な内語は、誰にも理解できないかもしれない孤独な言語なのだ。

    **

    3 教育を取り返す

    教えられた言葉ではなく、身の内から湧いてくる自身の言葉や思いは何か。世間に目は向けても、そこに注意することを怠ってきた。educate(教育する)には「自分を育て上げる」という意味がある。自律的に学ばないと、もう立ちゆかない世界が始まっている。それを胸に刻みつけたい。

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    無自覚に学ばれた「普通」で明晰さを失う

    この島に住んでいると感じるのは、絶え間なく「普通」についての教育を受け続けていることだ。脱稿やメディアに限らず、僕らが普通だと信じてやまない価値を参照し、その通りに行動することによって「普通」は無自覚に学習され続けている。その教育の結果、もたらされるのは「同化」だ。

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    「自分は何者か」という問いに潜む陰影に気づく

    教えられた通りの考えを身につけ、それによって善し悪しでジャッジする。それを普通の感性と言うのであれば、いずれは新しい出来事が起きても、従来の考えの内に収めることに満足を覚えるだろう。だが、それとは別の道がある。教えられたことをもとにして独自に学び、自らを育てていく。そこで初めて自立に向けた歩みが始まる。

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  2. shinichi Post author

    尹雄大(ユン・ウンデ)公式サイト

    インタビューセッション全国で募集中

    https://nonsavoir.com/archives/3585

    インタビューセッションとは?

    「自分が何者であるか?」を純粋に探求する時間です。
    私たちは「自分には価値がない」だとか「能力がない」とか、自身の価値を低く見積もることを当たり前にしています。
    セッションは、そのような長年かけて養ってきた自己像の向こう側にある、本来備えているはずの明晰さを求める場であり時間です。

     

    安心で安全な時間を提供

    セッションを受けられる方は、家族やパートナーとの関係、「やりたいことが見つからない」といった問題や悩み事を話されます。問題や悩み事を解決する方法を一方的に伝えたり、「それはよくないから、こうした方がいい」といった、私の個人的な価値観で良し悪しのジャッジしません。

     

    問題解決もジャッジもせず、ただ聞く

    問題解決をしようとすると、今の自分を否定するか。理想の自分になろうとする努力が必要です。今の自分以上の何者にもなれないのに、違う人物になろうとする試みは、解決とほど遠い回り道です。
    うまくいかないことは、うまくいかないだけの理由があります。そうせざるをえない自分の内にある言い分に耳を傾ける必要があります。内側の自分と話すことで光明が見えてくるかもしれません。

    セッションの流れ

    対面・オンライン・散策から選んでいただきます。うまく言おうとせずとも結構ですので、思うままにお話ください。
    なおセッションの内容は録音いたしますのでご承知ください。文書化を必要とされない場合、希望者には録音データをお送りします。他の目的で使用することはありません。

    散策セッション

    向き合って話しをすることに緊張を覚える方もいらっしゃるので、合間に散策をしながらのセッションも行います。時間の配分は対面60分、散策30分をめどにします。
    京都ですと哲学の道あたり、東京では代々木公園や六義園、谷中霊園、根津あたり、その他にも申し込みされた方のお気に入りのところで行いたいと思います。料金は対面と変わりません。

    日時と場所について

    ご希望の時間をお知らせください。調整の上、ご返信します。なお場所は主に吉祥寺もしくは恵比寿近辺のマンションのレンタルスペースを利用しています。
    ★閉塞した空間を避けたい場合はご相談ください。

     

    【東京での開催予定:2022年6月】
    6月8〜15日

    希望される方は日時を指定の上、ご連絡ください。
    場所は吉祥寺もしくは恵比寿近辺です。
    現在、京都に住んでおります。関西方面にお住まいでご希望の方は常時受け付けております。

     

    ★申込方法
    nonsavoir@gmail.com宛に氏名、希望日時、連絡先を明記の上、お送りください。
    不明なことがありましたら、その旨も表記ください。

    ※基本的には東京近郊で行っていますが、地方にお住いの方も打診いただければ伺うようにしています。

    【料金】対面・散策
    90分:2万円
    文書化は別途1万円いただきます。

    オンラインでのセッション
    90分:1万5000円
    文書化は別途1万円いただきます。
    なお当日連絡なくキャンセルされた場合は全額お支払いいただきます。

     

    守秘義務について
    セッション中に伺った話や個人情報は公開しません。
    安心して話せる環境づくりに努めます。

    ★こんな方におすすめです。
    ・自分の話したいことややりたいことの核が見えない。
    ・自身が体験したことの整理がつかない。
    ・深く潜るような話をしたいけれど、なかなか話す機会もなく、身近な人に聞いてもらえない。

    ★インタビューセッションに興味はあるけれど、何をやっているかわかりません。教えてください。
     話したいことに沿った最小限の質問を行います。良し悪しのジャッジはしません。問答の中で本人が自分で何かを見出すためのガイドを行います。人によっては「マインドデトックス」のようなものとして感じられるかもしれません。

    ★どういった人がこれまで受けていますか?

    女性が9割を占めています。みなさん最初は「何を話していいかわかりません」と言われます。けれども実際は、滑らかでなくても非常に豊かな言葉を持っていることが多いです。その人独自の体験とそこから得た文法を持っているからこそ起きる現象ではないかと思います。彼女たちの言う「何を話していいかわからない」とは、既存の枠組みに当てはまらない話を豊かに持っている証だと私は感じています。

    ★体験者の感想(対面)
    「講座やカウンセリングだと、たまに『ここは俺の場だ』といった圧をかけてきて、その場の作法に則らないといけなかったり、こちらにぐいぐい入ってくる感じがしたりするので苦手なこともありました。インタビューセッションでは、そういう圧がなく、おびやかされる感じがなくてよかったです。言わせたいことを言わされた感じがなく、自分で考えて出てきたことに自分が納得できたと思います」

     

    「インタビューされているというよりは、興奮して自分語りに陥っているだけの私でしたが、ひと息おいた合間合間に溢れ出した感情の“核心”とは何か?を導き出すような質問が入り、ぐるぐるの回廊にあった思考と感情がその都度、新たな活路を示され流れ出すようでした」

    「セッション後、ゆっくりと裡側で変化が起こり、かたく握りしめていたものを手放せることに驚きと言葉に表せない不思議な感覚に包まれています。やりとりを通して正誤も善い悪いもなく起きたことを起きたまま観るという『何か』を顕していただけたと感じています」

    「自分の思いや考えが全然ないことがコンプレックスだったのですが、なかった訳ではなく、ただ無視していただけだったことに気が付きました。常にある自分の思いを『これではない』と見えなくしていたんだと思います。
    インタビューセッション中は、自分の中に浮かんでくるすべてが信じられました。言葉を迷わず口に出せました。恐れや『こうありたい』というような自分の理想が入り込む余地がなかったです」

    ★散策インタビューセッション体験者の感想
    「これまで口に出してこなかった自分の奥深くのことを、じっとしながら話すこと、聴いてもらうことはとても緊張するので〈散策セッション〉を選びました。
    話を聴いて、質問や合いの手を出してくれる人が隣にいることにも安心できました。これまで、真剣な話をするときは、顔を見合わせることが大切だと思いこんでいたけれど、そんなことはないんだなと思えました。
    言葉が出てくるまで待ってくれたり、問いかけを変えてくれたりしたので、文脈としては繋がらないかもしれないけど、なんとか言葉にすることができました。今回の体験で、自分の核心が明らかになったわけではないですが、怯えずにそれを探求しつづけていける、お守りのような時間になりました」

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