大躍進

大躍進では3,000–5,500万人の死者が生じたと考えられている。これは推定で110–160万人の死者を出した文革をはるかに上回る。世界史的には、1,600万人といわれる第一次世界大戦の犠牲者の2–3倍に達し、第二次世界大戦を除けば、20世紀で最も多くの犠牲者を出した事件である。中国史上でいえば、数千万人の死者を出した19世紀中葉の動乱・飢饉に次ぐ出来事であるが、大躍進の場合、主として3年間に生じた犠牲者であるから、1年あたりの犠牲者数はそれを上回る。したがって、中国史上においても空前の被害をもたらした出来事といえる。

2 thoughts on “大躍進

  1. shinichi Post author

    大躍進政策
    ウィキペディア
    https://ja.wikipedia.org/wiki/大躍進政策

    大躍進政策(だいやくしんせいさく、繁体字: 大躍進、簡体字: 大跃进、拼音: dàyuèjìn、英語: Great Leap Forward)とは、中華人民共和国の毛沢東共産党主席による多数の餓死者を出した失敗した社会主義政策である。1957年6月に中国共産党によるプロレタリア独裁を批判した民主派や知識人を「右派分子」とレッテルを貼って弾圧した反右派闘争で中国共産党への批判は不可能となった上に、中国共産党内部でも毛沢東への個人崇拝が絶対化されたため、党内主導権を得た毛沢東の指導の下で、1958年5月から1961年1月までの間に中華人民共和国が施行した農業と工業の大増産政策である。反対派を粛清し、合作社・人民公社・大食堂など国民の財産を全て没収して共有化する共産主義政策を推進した毛沢東は、数年間で核武装や高度経済成長によって先進国であるアメリカ合衆国やイギリスを15年以内に追い越すと宣言した。しかし現実を無視した増産手法、四害駆除運動で蝗害を招く、多数の人民を処刑死・拷問死させるなどの権力闘争のために中国国内で大混乱を招き、中華人民共和国大飢饉(推定1500万〜5500万人が死亡)、産業・インフラ・環境の大破壊、中華人民共和国最少出生数記録更新を招いた。

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    1957年11月6日、ソ連のニキータ・フルシチョフ第一書記は「ソ連が工業生産(鉄鋼や石油、セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろう」と宣言した。

    中ソ対立が鮮明化しつつあった中、毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年5月の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」とより短く「修正」)という、壮大な計画を立案した。

    しかし、市場原理を無視して一部の農工業生産指標のみにおいて3年間でイギリスとアメリカを追い越すほどのノルマを人民に課し、杜撰な管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。

    1959年7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、彭徳懐国防部長(元帥)が大躍進政策の問題点を諫めた。この指摘に対して毛沢東は労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否した。彭徳懐は失脚させられた。この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。

    また、当時の中国共産党の指導層は高等教育を受けた者が少なく、無学が故に、需要・流通・輸出入・インフラなどを含めたマクロ経済やミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然を、ごく単純な合理思考で改造・操作できると考えてしまったのである。

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  2. shinichi Post author

    大躍進と日本人「知中派」
    ―論壇における訪中者・中国研究者

    by 村上衛

    https://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~rcmcc/maozedong-paper/08_murakami.pdf

    毛沢東の政策で最も大きな犠牲者を出したのが大躍進であることはいうまでもない。しかしながら、文化大革命と比較して、日本における大躍進への関心は低く、それは中国研究者の間でも顕著である。文化大革命発動から50年が経過した2016年、日本では文革関係の書籍が刊行され、文革関連のシンポジウムも開催されたが、大躍進開始から50年、60年といった節目の年にも、大きな動きはなかった。

    日本における大躍進研究は、同時代においては人民公社に焦点をあてたものが中心となり、中国から流される限られた情報に基づいて高く評価するものが多かった。その後、1960年代後半から1980年代初頭にかけては、政治学・経済学的な分析が多く、史料的制約もあって大躍進の実態には踏み込めていない。1980年代以降には大躍進期の人口減少が中国側の公表した統計によって明らかになり、史料状況も改善してきたにも関わらず、日本においては大躍進研究に対する関心は薄れてしまい、中国語圏と英語圏の研究に依存するような状況にある。

    日本で採択数の最も多い高校世界史の教科書では、大躍進については以下のように記述されている。

    中国は、1950年代前半に戦前の農工業生産額をこえたが、やがて強引な工業化・農業集団化政策や共産党支配への批判があらわれた。毛沢東は批判勢力に反撃し、急激な社会主義建設をめざす「大躍進」運動を指示して、農村での人民公社設立をすすめた。しかし、性急な大規模集団化や専門技術の軽視の結果、農業生産の急減などにより餓死者が発生したため失敗した。59年には毛沢東にかわって劉少奇が国家主席となり、計画経済を見直した。

    これは事実経過としては誤っているわけではないが、厳密には1959年4月に劉少奇が国家主席となった後にも毛沢東は実権を握っていたから、1962年初頭まで大躍進は止まらなかった。彭徳懐が批判された廬山会議が開催されたのは1959年の7–8月であり、飢饉による犠牲者が最大になったのは1960年であった。そして具体的な数値も挙げられていないために、大躍進の被害の大きさを認識することはできない。

    後述するような研究の進展にともない、大躍進では3,000–4,500万人の死者が生じたと考えられている。これは推定で110–160万人の死者を出した文革をはるかに上回る。世界史的には、1,600万人といわれる第一次世界大戦の犠牲者の2–3倍に達し、第二次世界大戦を除けば、20世紀で最も多くの犠牲者を出した事件である。中国史上でいえば、数千万人の死者を出した19世紀中葉の動乱・飢饉に次ぐ出来事であるが、大躍進の場合、主として3年間に生じた犠牲者であるから、1年あたりの犠牲者数はそれを上回る。したがって、中国史上においても空前の被害をもたらした出来事といえる。

    これだけの犠牲者を出した大躍進について、同時代の日本ではどのように受け止められていたのだろうか。

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