縮小という理想(小野塚 知二)

「人口減少」とか「ゼロ成長」という言葉に接すると、本能的に拒否感や忌避感を示す人がいるが、それは、近代・現代の慨性と感性を自党できず、それらに束縛されているからである。体感できる人口増加や経済成長が常態であったのは、人類史の中では近世以降のたかだか数百年に過ぎず、しかもそれがもはや持続可能ではないことはさまざまな点から明らかにされつつある。 … 人類が人口的・経済的には縮小に向かうことが必要であり、可能であり、またそれは人類にとって福音ですらある … ただし、今後約三世紀以上にわたって、縮小が破滅的ではない経路をたどることは決して容易ではない。
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持続可能な人口に向けた減少が必要であるとしても、注意しなければならないのは、価値判断の問題として回避すべき選択肢がたくさんあることである。 … まず、われわれが避けなければならないのは飢餓・貧困・不衛生そして疫病による大量死亡であろう。 … 次に避けなければならないのは、不足する食糧や水などの資源をめぐって争奪戦と殺数が発生するというシナリオである。
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「人口減少」にともなう広く共有された懸念は、経済的・社会的な問題である。すなわち、第一に、人口減少といま以上の高齢化が進んだなら、労働力が不足するのではないかという心配であり、第二に、人口の年齢別構成が高齢(啓盤札)に偏るなら社会保障財政を維持できなくなるのではないかという心配であり、第三が、そもそも人口が減少すれば経済は恒常的なマイナス成長に突入して、立ちゆかなくなるのではないかという心配である。
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持続可能人口に減少するまでの何百年間を破滅的な破綻を回避しながら生き延び、文明的で平和的で持続的な社会に軟着陸することができる可能性を追求するのが当面の人類の福音である。そこでは、飢餓.疫病、戦争、ネオリベラルな功利主義や新しい全体主義がもたらすかもしれない生政治・優生政策による人口減少を回避する叡智と技が求められる。

ゼロ成長経済と資本主義――縮小という理想(PDFファイル)

2 thoughts on “縮小という理想(小野塚 知二)

  1. shinichi Post author

    ゼロ成長経済と資本主義――縮小という理想

    世界 2021年8月号
    岩波書店

    by 小野塚知二

    「人口減少」とか「ゼロ成長」という言葉に接すると、本能的に拒否感や忌避感を示す人がいるが、それは、近代・現代の慨性と感性を自党できず、それらに束縛されているからである。体感できる人口増加や経済成長が常態であったのは、人類史の中では近世以降のたかだか数百年に過ぎず、しかもそれがもはや持続可能ではないことはさまざまな点から明らかにされつつある。以下では、人類が人口的・経済的には縮小に向かうことが必要であり、可能であり、またそれは人類にとって福音ですらあることを示す。ただし、今後約三世紀以上にわたって、縮小が破滅的ではない経路をたどることは決して容易ではない。縮小に向かう過程に求められる条件も併せて明らかにしたい。

    持続可能人口への過程で回避すぺきこと

    持続可能な人口に向けた減少が必要であるとしても、注意しなければならないのは、価値判断の問題として回避すべき選択肢がたくさんあることである。

    まず、われわれが避けなければならないのは飢餓・貧困・不衛生そして疫病による大量死亡であろう。国連世界食糧計画(WFP)によれば、現在の世界では約七億人が飢えに苦しみ、WFPはそのうち八〇〇〇万人に支援を行なっている。さまざまな団体や国家、篤志家などの援助によって、飢える七億人がかろうじて生存しているのだとするなら、一切の援助を停止するなら、人口は減少するであろう。しかし、これはあからさまに人道に反する。いま眼前で飢えている人々に、いまのわれわれのできる援助をせずに、飢餓・貧困・不衛生・疫病による死亡に委ね続けるなら、人の歴史はほとんど常に飢餓・貧困・不衛生・疫病との闘いであったのだから、これから先もそうした原因で死亡する者は後を絶たないだろう。その結果、毎年、世界人口が11%ずつ減少すると仮定してみよう。そうすると、現在の人口は二〇八〇年には二四億人となり、意外に早く持続可能人口にまで縮減することとなる。国連経済社会局(UNDESA)の下位推計よりもはるかに低位の人口動態をこうして描くことは可能ではあるが、長期的には人口を減らさなければならないのだとしても、意図的に人をこうした死に委ねるのは明らかに人の道に反することだから、選択肢とはなりえない。

    次に避けなければならないのは、不足する食糧や水などの資源をめぐって争奪戦と殺数が発生するというシナリオである。殊に核兵器や生物・化学兵器などが本格的に投入されるなら、劇的な人口減少がもたらされようが、それは、人口減少だけでなく、根深い敵楓心を世界の各地に残し、復薯のための戦争が繰り返されるという統御不能な状況に陥り、人類の文明そのものが壊滅的に崩壊する危険性すらある。こうした容易に予想可能な危機を回避するためには、核兵器禁止条約のような取組を進めて、大量破壊・殺裁兵器の開発•生産・配備そのものを停止することが求められるであろう。そうした兵器がなくても、古くからそうであったように資源争奪戦は発生するかもしれないが、大緻殺獄兵器の存在は紛争のあり方をより悲惨なものにする。また、大量殺数兵器が利用可能であるという認識は資源争奪戦において敵の人口を熾滅するという戦略を可能にする。ここでは、人類は戦争によって破滅的に破綻してはいけないと選択することにしよう。

    人口減少過程の経済と社会

    「人口減少」にともなう広く共有された懸念は、経済的・社会的な問題である。すなわち、第一に、人口減少といま以上の高齢化が進んだなら、労働力が不足するのではないかという心配であり、第二に、人口の年齢別構成が高齢(啓盤札)に偏るなら社会保障財政を維持できなくなるのではないかという心配であり、第三が、そもそも人口が減少すれば経済は恒常的なマイナス成長に突入して、立ちゆかなくなるのではないかという心配である。

    「マイナス成長の恐怖」

    人口が減少すれば経済規模は縮小する。それゆえ、GDPも減少するから、マイナス成長になって経済は立ちゆかなくなると考えてしまうのは、経済学の不適切な認識方法に制約されているからである。GDPをはじめとする国民経済計算体系は、物財の市場向け生産と売買されるサービスを評価するには便利だが、対人サービスや市場に登場しない(11不払いの)財・サービスを適切に評価する点で本質的な無理をはらんでいる。つまり、それは経済を正確に計測できる道具ではないのだ。そのうえ、国民経済計算は一国が産み出した物財の総巌を計ってはいるが、個々の人間にとっての経済の実質的な意味(生の安寧を保証し、幸福の客観的条件を提供すること)を適切に表示することを苦手としている。

    問題とすべきなのは、一人一人が享受できる物財とサーピス(人間関係)の質と景であって、従来の経済学の考え方では一人当たりGDPが近似的にはそれに最も近い概念であるが、国民経済計算も会計制度も、今後のゼロ成長・マイナス成長経済を適切に計測し、表示する術を開発できていない。したがって、大国なら、一人当たりの水準が低くても、全員からごくわずかでも徴税することによって、中央政府には大きな富がもたらされ、それは強い軍事力や、高度な科学・技芸を保証するのに役立ちはするが(たとえば古代以来、中国やインドに成立してきた大帝国とその文明)、自分がそうした大国に生きていることが直ちに個々人の幸福を意味しているわけではないことはいうまでもない。

    むすびにかえて――縮小という理想

    持続可能人口に減少するまでの何百年間を破滅的な破綻を回避しながら生き延び、文明的で平和的で持続的な社会に軟着陸することができる可能性を追求するのが当面の人類の福音である。そこでは、飢餓.疫病、戦争、ネオリベラルな功利主義や新しい全体主義がもたらすかもしれない生政治・優生政策による人口減少を回避する叡智と技が求められる。

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