病んでしまった経済学(トーマス・セドラチェク)

経済学の精神病質が、軽い症状ならば、笑ってすますこともできる。だが、重大なものもいくつかある。明らかに認められるのは一種の双極性障害、つまりは躁うつ病であり、その結果、躁うつの両極においてひどい混乱が生じている。
哲学的・倫理的な視点から見ると、現代の経済学はエゴイズムという全能の力を信じ、まるでエゴイズムこそが地球を導く力であるかのように、エゴイズムの「ゴスペル」を説いている(ゴスペルは本来「よい知らせ(福音)」を意味する)。
経済学的な思考は個人的功利主義の子孫であり、ほかのすべての価値を冷笑とともに非難する。経済学の身勝手さは、次の面でも表れている。何か問題が起きるたび、国家や社会など、いつもは蔑んでいる父親のもとにすぐに身を潜めてしまうことだ。記憶に新しいところでは、2008年の経済危機の際にそれが起きた。
経済学はまたあくまで、相手について学ぶためではなく、相手を支配するために、ほかの分野とのつながりを築こうとする(これがいわゆる経済学の帝国主義だ。一部の経済学者はそれを誇りにすらしている)。
経済学はそもそも社会から生まれたものなのに、社会から独立しようともがきあがいている。だからこそ経済学は、人文科学として位置づけられるのを嫌い、自然科学に近い存在を志向する。こうして経済学は物理学からも学び、ほかの社会科学の分野にもそれと同じことを期待する。

One thought on “病んでしまった経済学(トーマス・セドラチェク)

  1. shinichi Post author

    精神を病んでしまった経済学を救う術はあるか

    もしユングとフロイトが経済学の魂を診たら
    by トーマス・セドラチェク、オリヴァー・タンツァー

    https://toyokeizai.net/articles/-/344296

    NHK「欲望の資本主義」シリーズ(書籍では『欲望の資本主義』『欲望の資本主義2』)にも登場したチェコの若き俊英、トーマス・セドラチェク。ロングセラー『善と悪の経済学』で経済学のあるべき姿を説いた彼は、続編『資本主義の精神分析』で、ジャーナリストのタンツァーとともに、斬新な方法で経済学の抱える病を解き明かす。
    「経済学を精神分析のソファに乗せる」というユニークな試みで2人は何を伝えたかったのか。抜粋・編集してお届けする。

    もし、経済学をフロイトのソファに乗せたら

    自分のことを理性的で真面目で大人だと思っている(そしてそれを鼻にかけている)人に精神分析を受けさせるのは、なかなか愉快なものだ。そして人間にこの手法を用いるのが正当であり、かつ有益な可能性があるのなら、人間を取り囲み、人間を形成している社会構造などの「システム」にも、それを行わない手はないだろう。

    前々から私はこの思いを抱き、自分の愛する経済学という学問にそれを試みたいと考えていた。好奇心のせいだけではない。経済学的な視点は今、人々の思考の中でより重要なものになりつつあるからだ。

    政治も社会も、経済的な視点によって形成される。祖先の時代に比べて現代では、お金があろうとなかろうと基本的な生存手段は等しく手に入れられるようになっているが(収穫、身の安全、健康、教育など)、人間の思考のあり方には経済的な論理がずっと大きな影響を与えている。

    精神分析の古典的な図は、患者がソファに横になり、話を語るというものだ。精神分析家はそれに耳を傾け、メモをとり、患者の言葉を熟考する。それと同じことを、本書では社会に対して行ってみようと思う。経済学をソファの上にのせ、相手の語ることに単純に耳を澄ますというのが、本書の一部分における基本的な手法だ。

    さて、どんな言葉が口にされるだろうか? (経済学の)希望は、夢は、何なのだろう? 何を恐れるのだろう? 何をどのように正当化するのだろう? 何について語るのが好きで、どんなテーマをタブー視し、どんなテーマには口をつぐむのだろう? 自分自身のことを、どのように見ているのだろう? 自分の感情を、どんなふうに処理しているのだろう? 他者との関係はどうなのだろう?

    経済学の精神病質が、軽い症状ならば、笑ってすますこともできる。だが、重大なものもいくつかある。明らかに認められるのは一種の双極性障害、つまりは躁うつ病であり、その結果、躁うつの両極においてひどい混乱が生じている。

    哲学的・倫理的な視点から見ると、現代の経済学はエゴイズムという全能の力を信じ、まるでエゴイズムこそが地球を導く力であるかのように、エゴイズムの「ゴスペル」を説いている(ゴスペルは本来「よい知らせ(福音)」を意味する)。

    経済学の身勝手さ、傲慢さと帝国主義

    経済学的な思考は個人的功利主義の子孫であり、ほかのすべての価値を冷笑とともに非難する。経済学の身勝手さは、次の面でも表れている。何か問題が起きるたび、国家や社会など、いつもは蔑んでいる父親のもとにすぐに身を潜めてしまうことだ。記憶に新しいところでは、2008年の経済危機の際にそれが起きた。

    経済学はまたあくまで、相手について学ぶためではなく、相手を支配するために、ほかの分野とのつながりを築こうとする(これがいわゆる経済学の帝国主義だ。一部の経済学者はそれを誇りにすらしている)。

    経済学はそもそも社会から生まれたものなのに、社会から独立しようともがきあがいている。だからこそ経済学は、人文科学として位置づけられるのを嫌い、自然科学に近い存在を志向する。こうして経済学は物理学からも学び、ほかの社会科学の分野にもそれと同じことを期待する。

    私たち著者はこの本の中で(そうした問いがもし許されるのなら)こんな問いかけをしてみたい。現代の経済学および全体としての経済システムにおいて、精神病質と診断されうるような側面はあるのだろうか? あるとしたら、それはどんなものなのだろう? 経済学は社会の病をどの程度明らかにできるのだろうか? 経済学は社会のどんな病を強め、どんな病を弱めるのだろうか?

    経済の精神分析の深い部分まで潜るために、本書では神話の助けを借りた。神話とは、社会を映し出す鏡のようなものだ。とても古くてくもった鏡だし、ところどころヒビが入っていたりもするが、それは現代の私たちの姿をそのまま映し出している。

    神話は容易に理解が可能で、登場人物が想像の産物にすぎないにもかかわらず、のちに出てくる宗教や物理や数学と同じほど力をもった。そして神話には、ほかと比べて際立った特徴が1つある。それは、神話が矛盾をはらんでいることだ。

    一見、神話はとんでもなく単純に見える。勇者と神々が争い、戦闘を繰り広げ、子どもが生まれ、人が死んだり、殺されたり、追放されたり、復讐に燃えた亡霊に追い回されたりする。だがこの単純な物語に解釈を試みると、それは奇妙に今日的に、多層的に、そして普遍的になる。

    こうした物語の魅力は、心をとらえる教訓が書かれていることと、人間の行動を的確に把握していることだ。神話はまた、経済についても多くを語っている。例えば所有者と所有物との関係。人がものを手に入れ、それを守るために何を与えなければならないかという問題。征服や略奪や防御、権力と敗北、そして富や宝がどんな力を持つかという問題だ。

    神話のエピソードの中には非常に単純で理解しやすいものもある。例えば、触れたものすべてが黄金になるよう望んだ結果、飢え死にしかけるミダス王の話だ。一方で、いく度も読み直さなければいけないものもある。その1つが僭主ポリュクラテスを襲った幸運についての物語だ。

    これらの、そしてその他多数の神話は、経済の本来の姿を解明するうえで助けになる。そのためには、経済学がまとっている合理性と数学でできたマントをはぎ取る必要がある。経済学は一見、すばらしい論理と、合理的に選択された行動と、ブラック=ショールズ方程式の算出可能性のみで形成されているように見える。だが、それは人間が被せた魅惑の上着のおかげにすぎない。

    フロイトとユングの知識で経済学を診断する

    本書の主張はこうだ。経済学は最高にすばらしい学問になりうる。だがそのためには、片足で立っていては(つまり数学のみに依拠していては)いけない。古い時代の賢明な経済学者らは、未来の経済学において精神分析が重要な位置を占めるだろうと予言していた。それは、精神分析が非合理的なものを扱う唯一の科学だからだ。

    精神分析という学問は伝統的に、神話に積極的に取り組み、神話を活用してきた。だから、経済畑から来た私たち著者も、精神分析と神話の両方に出会うことになった。つまり、精神分析というメソッドのために、神話という道具を用いたわけだ。その際、2人の偉大な学者に多くを負った。

    2人は生前敵対していたが、こうした象徴を読み解いてくれた点で、私たちにとってはどちらも同じほど、計り知れない価値をもっている。1人はジークムント・フロイト。もう1人は、カール・グスタフ・ユングだ。フロイトは、自身の精神病理学を説明したり整理したりするのに神話を用いた。ユングは神話にさらに大きな意義を認め、人間の経験の原型や集団的無意識を神話の中に発見した。

    本書ではフロイトとユングの両方の知識を用いた。そのほかに、彼らの学問上の後継者や人類学者、社会心理学者、精神医学者、哲学者、民族学者らの知識も参考にした。こうした多様な分野のたくさんの仲間が専門家として本書に所見を述べてくれなかったら、おそらくこの本が世に出ることはなかっただろう。

    経済学が抱えている5つの疾患とは

    経済学には精神分析が必要だろうか? 本書の考えによれば、少なくとも精神療法的な評価は必要だろう。それは、長い省察が必要な作業だ。現在の経済システムが大きな進歩をもたらしたのは否定しようもないことだし、そのシステムに付随する学問のおかげで人々が巨大な富を手にできたのも事実だ。

    だが、それでも私たちが指摘したいのは、過去数年の間に経済システムに病気のような症状が生まれ、それがもはや見過ごせない域まで進んでしまったことだ。体系的に見ると、そこにはサディズム、ナルシシズム、そしてサドマゾヒズム的な要素が認められる。

    臨床的な手がかりをもとにすると、大きく分けて次の5つの精神疾患が認められるだろう。それらは現在の経済の一部であるだけにとどまらず、もはや経済を動かしているのだ。

    1. 現実認識障害:快楽原則のいわば病的な子孫。現代の欲望産業および消費財産業の売り上げのますます多くの部分は、これらによって生み出されている。

    2. 不安障害:現実を極度に否定的な形にゆがめて見せ、人に異常な行動をとらせる。不安はつねに、ビジネスにおける非常に重要な一分野だ。危機の時代にはとくにそれが顕著になる。

    3. 気分障害/情動障害:本書でとくに扱うのは、躁とうつを行き来する双極性障害だ。景気の変動や、好況と恐慌の急速な変転などにこの症状が認められる。

    4. 衝動制御障害:本書では2つの行動パターンを扱う。1つは病的な賭博癖で、とくに投資銀行に関連する市場行動にそれが認められる。もう1つは窃盗癖(クレプトマニア)で、いささか驚きかもしれないが、現在主流のシステムの奇妙な性質によって説明される。それは「最も成功する人は、何も引き換えにせずに仕事や財産や資本を獲得している」ことだ。

    この失調は、経済的商取引の根底にあるメカニズムから力を奪う。本来なら全構成員がフェアだと感じる富や仕事の交換によってのみ、システムは保持されるはずだ。

    システムが病的な経営者を生み出す

    最後は人格障害だ。

    5. 人格障害:攻撃や競争を特徴とするシステムを維持するためには、構成員をふさわしく教育しなければならない。経営者はエゴイズムや野蛮な競争に適合するよう訓練され、システムのための道具と化す。利他主義や思いやりや良識は二の次にされる。

    だが、人間が作ったそのシステムはもはや創造主に仕えるのをやめ、自身が支配者の座につき、その結果、労働世界はすべての構成員にとってハムスターの回し車に限りなく近づいている。

    おおげさにいえば、現代の経営者は職場に足を踏み入れるや無慈悲なハイド氏に変身し、仕事を終えて帰宅すると心優しいジキル氏に戻る。モラルの低下にも経営者の非道にも、システムは知らぬ顔だ。経営者は本来ひどい人間でなくても、システムによって病的な役割を押しつけられてしまうのだ。

    精神分析の方法と同じように、本書のつとめは相手の話を聞くことであって、誰かに責任を負わせたり告発したりすることではない。だから、資本主義によって形づくられた市場経済や銀行や金融市場を否定はしない。

    もろもろの批判にもかかわらず、私たち著者は現在の経済秩序を、世界や人々をより豊かにするだけでなく、よりよくしてきたシステムだと考えている。だからといって、その誤った展開を批判的に分析するのをやめるつもりはない。本書では、システムの病質を全般的に説明し、可能ならば、治療法も紹介したいと考えている。

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