「私」は脳ではない(マルクス・ガブリエル)

本書で採用するのは反自然主義の視点です。つまり、存在するすべてのものが実際に科学的に調査可能であるわけでも、物質であるわけでもない、という前提に立っています。要するに、私が言っているのは、非物質的現実が存在する、ということです。これは実際、良識があれば誰にでも分かることだと思います。私が誰かを友達とみなし、したがってそれ相応の感情をその人に抱いて、その感情にふさわしい行動をするとき、私とその人の間にある友情は物質であるなどとは考えません。私は自分自身についても物質的な物にすぎないと考えているわけではありません。もちろん、私だって、今の私がもっているこの肉体がなければ、この私ではなくなるでしょう。そして、その肉体にしても、この宇宙の自然法則が違ったものであったり、あるいは生物が異なる進化を遂げていたとしたら、私は手に入れることができなかったでしょう。

2 thoughts on “「私」は脳ではない(マルクス・ガブリエル)

  1. shinichi Post author

    「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学

    講談社選書メチエ

    著:マルクス・ガブリエル 訳:姫田 多佳子

    https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000315307

    今、世界で最も注目を浴びる哲学者マルクス・ガブリエル。大ヒット作『なぜ世界は存在しないのか』の続編にして、一般向け哲学書「三部作」の第2巻をなす注目の書が日本語で登場です。
    前作と同様に目を惹きつけられる書名が伝えているように、本書が取り上げるのは昨今ますます進歩を遂げる脳研究などの神経科学です。それは人間の思考や意識、そして精神は空間や時間の中に存在する物と同一視できると考え、その場所を特定しようと努めています。その結果は何かといえば、思考も意識も精神も、すべて脳という物に還元される、ということにほかなりません。でも、そんな考えは「イデオロギー」であり、「誤った空想の産物」にすぎない、というのがガブリエルの主張です。
    「神経中心主義」と呼ばれるこのイデオロギーは、次のように主張します。「「私」、「意識」、「自己」、「意志」、「自由」、あるいは「精神」などの概念を理解したいのなら、哲学や宗教、あるいは良識などに尋ねても無駄だ、脳を神経科学の手法で―─進化生物学の手法と組み合わせれば最高だが―─調べなければならないのだ」と。本書の目的は、この考えを否定し、「「私」は脳ではない」と宣言することにあります。その拠り所となるのは、人間は思い違いをしたり非合理的なことをしたりするという事実であり、しかもそれがどんな事態なのかを探究する力をもっているという事実です。これこそが「精神の自由」という概念が指し示すことであり、「神経中心主義」から完全に抜け落ちているものだとガブリエルは言います。
    したがって、人工知能が人間の脳を超える「シンギュラリティ」に到達すると説くAI研究も、科学技術を使って人間の能力を進化させることで人間がもつ限界を超えた知的生命を実現しようとする「トランスヒューマニズム」も、「神経中心主義」を奉じている点では変わりなく、どれだけ前進しても決して「精神の自由」には到達できない、と本書は力強く主張するのです。
    矢継ぎ早に新しい技術が登場してはメディアを席捲し、全体像が見えないまま、人間だけがもつ能力など存在しないのではないか、人間は何ら特権的な存在ではないのではないか……といった疑念を突きつけられる機会が増している今、哲学にのみ可能な思考こそが「精神の自由」を擁護できるのかもしれません。前作と同様、日常的な場面や、テレビ番組、映画作品など、分かりやすい具体例を豊富に織り交ぜながら展開される本書は、哲学者が私たちに贈ってくれた「希望」にほかならないでしょう。

    [本書の内容]
    序 論
    I 精神哲学では何をテーマにするのか?
    II 意 識
    III 自己意識
    IV 実のところ「私」とは誰あるいは何なのか?
    V 自 由

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