戦争反対論の欠陥(古森義久)

ウクライナに対して、「戦争反対」、つまり戦うことを止めろと、号令をかければ、自国の防衛に命を賭けるウクライナの国民、あるいは軍人に対して、ロシアへの抵抗をもう止めろ、と命じることに等しくなる。

3 thoughts on “戦争反対論の欠陥(古森義久)

  1. shinichi Post author

    日本での「戦争反対」論の欠陥

    by 古森義久

    https://www.jfss.gr.jp/article/1705

     日本でのウクライナ戦争への反応で目立つのは「戦争反対」の声である。当然ではあろう。だが村上春樹というような著名な作家までが「ウクライナでの戦争に反対!」と主張する活動を展開する。だがこの「戦争反対」というスローガンには重大な欠陥がある。
     日本での「戦争反対」の源流をたどれば、日本国憲法にまでぶつかるだろう。憲法9条は日本に対して戦争を禁じ、交戦権を否定し、戦力の保持をも禁止するからだ。
     だから国として、国民として、とにかく戦うことは一切、禁止というのが日本国憲法の真髄ということになる。
     この「戦争反対」の概念には「平和」という言葉が一体となって、からんでいる。平和のために戦争を止める、その平和こそ人類、あるいは人間にとって最高至上のあり方なのだ、というわけである。
     いまの日本で作家の村上春樹氏のような人たちはそんな日本の基準をウクライナにも当てはめ、「戦争反対」を叫ぶのだろう。
     だが、ちょっと待て、である。
     ウクライナに対して、「戦争反対」、つまり戦うことを止めろと、号令をかければ、自国の防衛に命を賭けるウクライナの国民、あるいは軍人に対して、ロシアへの抵抗をもう止めろ、と命じることに等しくなる。
     本来、いまの世界がウクライナ情勢に関して反対しているのは戦争自体ではなく、ロシアの侵略なのである。まず起こるべき声は「侵略反対」なのだ。その侵略に対して、日本流に「戦争はよくないから」と非戦を実行すれば、すべては戦争をためらわないロシアの意図どおりになってしまう。
     ウクライナ側が戦いを止めれば、ウクライナという国家が失われてしまう。国民の自由や独立、自主性、主体性、そして国家としての主権もなくしてしまう。戦争さえなければ、それでもよいのか。無抵抗、そして全面降伏となる戦いの停止を求めることは、当事者からすれば、あまりに無責任なのだ。
     ウクライナの国家も国民もロシアの侵略に直面して、戦ってその侵略を防ぐという道を選んだことは明白である。なのに遠い日本にいて、戦いを止めろ、と声をかける。あまりに無責任な言動だといえよう。責任のある言葉をロシア側に浴びせるならば、それは「侵略を止めろ」ということになる。
     ここらあたりで日本の戦後の「戦争反対論」や「平和主義」を再考し、破棄すべきだろう。なぜなら日本の「戦争反対」や「平和を」という主張はすべての戦いを否定するという立場に立脚しているからだ。
     だが国家にしても、人間の集団や個人にしても、生存していくうえで、その生存自体への危機や脅威とも戦ってはいけないとなれば、あとは死、つまり生物としての絶滅を意味するだけとなる。
     国家を個人に置き換えて、考えてみよう。
     人間が自分を守るために戦う。これは国ならば個別の自衛権の発動だろう。
     人間が愛する他者を守るために戦う。これは国ならば集団的自衛権の発動となる。
     人間はさらに正義を守るためにも戦う。これが同盟の考え方であり、国連の平和維持活動の実践だろう。
     しかし日本の憲法9条を文字どおりに読むと、上記のいずれの戦いも禁じているように解釈できるのだ。これは無理もない。日本国憲法がその目的のために作られたからだ。
     私は日本国憲法の草案を1946年2月に書いたアメリカ占領軍司令部のチャールズ・ケーディス大佐(当時)に長時間、インタビューしたことがある。そんな体験を有する日本国民もいまでは数が少なくなった。
     そのインタビューでケーディス氏は新憲法の最大の目的が「日本を永遠に非武装しておくことだった」と明言した。上司からの原案では日本は自国の防衛の権利も持たないことを規定するという一項があったが、それでは戦後の日本は独立国家たりえないと判断して、同氏の一存でその条項は入れなかったという。
     憲法の前文をみてもそんな意図は明白である。
     「日本国民は平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」というのだ。諸国民は平和を愛し、公正と信義を保つから、日本にとっても、他の諸国にとっても脅威や侵略はない、という前提である。戦う必要がない、というわけだ。
     だがこんな認識が空想に過ぎず、世界の現実には戦って守るしかないという状況がいくらでもあることは、あまりに明白だといえる。
     要するにいまの日本の憲法は日本という国家を戦う能力も意思も持たない人間集団にするために作られたのである。アメリカ側が強大な軍事国家としての日本の再現を恐れたからだった。そのアメリカの意図は戦後の日本でみごとに花を咲かせた。
     だがいまやウクライナに戦わなければ滅亡する、という現実の状況が出現し、日本はそれでもなお「戦うな」と叫ぶのか。よく考えてほしい。

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  2. shinichi Post author

    ウクライナ戦争とロシア政治エリートの論理

    by 佐藤優

    https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20220830/pol/00m/010/007000c

     日本のマスメディアの報道や有識者の発言は、ウクライナや欧米諸国(特に米国と英国)からの情報が信頼度が高いという前提でなされている。対して、ロシア発の情報は操作されたものと受け止められ、まともな評価の対象になっていない。

     筆者は、欧米発であれロシア発であれ、正しい情報もあれば操作された情報もあると考えている。情勢を分析する上で、善悪、好悪の判断を一旦括弧(かっこ)に入れて、ロシアの内在的論理を捉えることが重要と考えている。

    研修中に知り合った現ロシア与党の幹部会員

     筆者は外務省の研修生として、1987年9月から88年5月までモスクワ国立大学で学んだ。そのとき哲学部科学的無神論学科で机を並べて勉強したのがアレクサンドル・カザコフ氏だ。

     65年生まれでラトビアのリガ出身のカザコフ氏は筆者より5歳年下だが、早熟の天才肌の学生だった。そのとき以来、35年間、友だち付き合いをしている。拙著「自壊する帝国」(新潮文庫)の主要な登場人物だ。カザコフ氏は大学時代に反体制派の学生運動に深く関与し、KGB(ソ連国家保安委員会=秘密警察)の監視対象になったので、モスクワを離れてリガを拠点にラトビア人民戦線の立ち上げに関与し、同国のソ連からの分離独立に奮闘した。

     当時はロシア人でも、ソ連体制に反発し、バルト3国の分離独立運動に参加する知識人が少なからずいた。カザコフ氏の反体制ネットワークの人々はエリツィン政権が成立すると政権を支えるエリートになった。

     独立後のラトビアではラトビア人至上主義が強まった。カザコフ氏は、ロシア語学校の保全やロシア人の人権を擁護する運動をラトビアで展開したことが、当局の忌避に触れ、2004年に逮捕されラトビアからロシアに強制追放になった。

     その後はスルコフ元大統領補佐官の引きで、プーチン政権を支持する政治学者兼社会活動家として活動している。カザコフ氏は政権与党「公正ロシア」の幹部会員(非議員)もつとめている。

     また14年から18年にかけて「ドネツク人民共和国」のザハルチェンコ首長の顧問もつとめていたので(18年にザハルチェンコ氏が暗殺された後、カザコフ氏も身に危険を覚えモスクワに戻った)、ドンバス(ウクライナのドネツク州とルガンスク州)の情勢に通暁している。ロシアの対ウクライナ戦略を形成するプレーヤーの一人だ。

    ロシア政治エリートの見方

     言うまでもないことだが、筆者とカザコフ氏のウクライナ戦争に対する認識は異なる。だからといって、友情が崩れるわけではない。カザコフ氏に関して発話主体の誠実性(政治的思惑からではなく、自分が考えていることを正直に述べるという態度)は損なわれていないと筆者は考えている。こういった事情を踏まえ、8月16日に筆者はカザコフ氏とテレビ電話で意見交換をしたので、その内容の一部を紹介する。

     <佐藤 「日本ではウクライナ軍がヘルソン市に攻勢をかけていると報じられている。ヘルソン市のドニエプル川北岸がウクライナの制圧下に入るのではないか」

     カザコフ 「それはない。ヘルソン市にウクライナが攻勢をかけているというウクライナと西側の報道はプロパガンダの域を出ていない。ウクライナ軍はハイマース(高機動ロケット砲システム)を用いて橋等を攻撃しているが、それによって戦局が変化することはない。ウクライナ軍は人員、武器、弾薬のいずれにおいても隘路(あいろ)があり、継戦能力に欠ける。ロシアの軍民政府は、食糧供給、医療の提供、教育体制の整備などによってヘルソン州住民の民意を掌握している」

     佐藤 「ウクライナ軍の指揮命令系統はどうなっていると見ているか」

     カザコフ 「ウクライナ軍にゼレンスキー大統領の統制は及んでいない。軍を事実上指揮しているのは、大佐級の米国人軍事顧問団だ。この顧問たちに大きな政治はわからない。ウクライナはかつての南ベトナムのような状況に置かれている」>

     ウクライナ軍に対するゼレンスキー大統領の統制が及んでおらず、米国人軍事顧問団が実質的な指揮をとっていると見るロシア政治エリートの標準的な見方だ。

    米国の戦略をどう見ているか

     <佐藤 「米国の対ウクライナ戦略についてどう見ているか」

     カザコフ 「米国内には現実主義的傾向もある。米軍が(NATO軍としてではなく)単独でウクライナに直接介入した場合のシミュレーションも行ったが、結局、そのようなシナリオは却下されたと承知している。米国は、ロシアと直接交戦しないという条件下でウクライナに対する軍事支援を行うというルールを遵守している。11月の中間選挙で民主党が勝利する可能性は低い。中間選挙後は、現在のペースでの軍事支援を米議会は承認しないであろう。また、ヨーロッパ大陸のドイツ、フランス、イタリアも中間選挙後は米国からの圧力が弱まるので、ウクライナ戦争から距離を置き始めると見ている。インフレ、エネルギー不足などの内政問題にヨーロッパ大陸諸国は忙殺され、ウクライナ戦争のウエートは低くなる」

     佐藤 「確かに米英と独仏伊には温度差がある」

     カザコフ 「むしろ注目しなくてはならないのは、米国と英国の戦略的違いが拡大していることだ。米国内には、ウクライナの勝利は難しく、この戦争の出口を探らなくてはならないという現実主義的発想がある」

     佐藤 「バイデン米大統領にもそのような発想があるのか」

     カザコフ 「ある。バイデンの周辺にも現実主義的発想をする人がいる。英国は、『必勝の信念』に基づいて、ウクライナ戦争を継続させることを考えている。種々の情報操作に加え、ポーランドとバルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)を先兵として用いている。19世紀のグレートゲーム以来のロシアを敵視するイデオロギーから離れることができない。もっとも英国の国力では、ウクライナを十分に支援することができないので、米国を巻き込み続けることが英国の至上命令になっている」>

     ロシアでは、アングロサクソンによるロシアへの攻撃という報道がよくなされるが、クレムリンは特に英国を敵視している。米国に関しては、ロシアとの戦争を避けるというゲームのルールを順守するプレイヤーであると一定の信頼感を持っている。

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    戦争については、尾関章さんの「戦争そのものには反対しなくてはならない」という言葉に尽きる。尾関さんの「戦争が人を殺すことを合法化している」とか「殺人の正当化は、悪の培地を用意することにほかならない」という文章に接すると、ほんとうにその通りだと思う。どんな戦争にも反対。ウクライナの戦争にも反対。ロシア政権だけでなくウクライナ政権にも反戦を突き付けなければならない。ノーはノーだ。心からそう思う。

    でも、侵略されときに侵略された側が戦わなければ、つまり戦争をしなければ、侵略者たちの思い通りになってしまう。そう思えば、戦争反対とばかり言ってはいられません。動物として、戦うことは生存の基本です。危機や脅威と戦わなければ、個は死に、種は絶滅する。生きるために、存続するために、戦わなければならない。

    理想は、石牟礼道子が『西南役伝説』で描いたような「支配者や権力者の視点とは一線を画す」という感じだろうが、なかなかそうもいかない。

    現実には、「戦争そのものには反対しなくてはならない」は「侵略には抵抗しなくてはならない」に置き換えられ、「侵略に対しては戦わなければならない」になり、侵略された側が和平を受け容れることはなくなり、消耗戦が続くことになってしまう。

    「戦争そのものには反対しなくてはならない」を貫き通すのは、とても難しい。

    **

    ゼレンスキー大統領の権威主義的なやり方や、民主主義を無視するようなやり方、そして国際的な合意を勝手に覆すやり方は、いくら戦時中とはいえ許されることではない。国民総動員令により国民の自由を剝奪し言論を統制したり、2024年の選挙を控えて最大のライバルであるキーウのクリチコ市長を政治的に排除しようとしているのを見ると、とてもいやな気持ちになる。

    ヨーロッパの国々がウクライナと連帯するといっても、それはゼレンスキー大統領や現政権への連帯ではなく、戦争の犠牲になっているウクライナ国民への連帯だと思う。それを間違って理解してはいけない。ウクライナ国民を厳しい立場に追いやっているのはロシア政府とウクライナ政府の両方だということを、はっきりさせなければならない。

    ウクライナの軍事支援・経済支援を積極的にしているのは、北米とヨーロッパを除けば、日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの4か国だけ。ロシアに制裁を加えようというのも同じような国々だ。アジア、アフリカ、南アメリカの国々はウクライナ支援にそれほど積極的ではない。どの国も、2014年あたりからずっと、結構冷静に見ている。

    ウクライナの戦争について反戦をいうならば、ロシアにもウクライナにもポロシェンコのように講和案を出すわけでもなく、どんな仲介にも耳を貸さないゼレンスキーが大統領でいるうちは、ウクライナの戦争は終わらない。

    ロシアの側だけに非があるというのは、絶対に間違っている。両方が悪い。双方が戦争をやめなければならない。そういう考えで反戦を言えば、それは世界に広がるかもしれない。でも片方にだけ非があるといって反戦を言っても、それは広がらない。

    人殺しは悪だ。それを基本にするならば、すべての戦争を悪と捉えなければならない。日本の英雄が、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康というような人殺しであってはならない。そういう人殺しは悪人であって、英雄ではない。その辺から仕切り直しをしないと、日本人の好戦的な姿勢は変わらない。

    「戦争そのものには反対しなくてはならない」という場合、いかなる例外もあってはならない。アメリカがやる戦争にも、ロシアがやる戦争にも、中国がやる戦争にも、そして日本がやる戦争にも、例外なく反対しなければならない。そう強く思う。

    。。。と、ここまで書いてきて、それはやっぱり少し違うかなと揺れている自分がいる。結局のところ、戦争が嫌だ・戦争には反対するという気持ちが、侵略者の侵略に対して何もしないのかという疑問に勝てていない。

    「戦争そのものには反対しなくてはならない」というのは、とても難しい。

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