5 thoughts on “織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

  1. shinichi Post author

    「虐殺者」織田信長は、ここまで残酷だった

    そこまでやる?「本当の姿」を知っていますか

    by 山岸 良二

    https://toyokeizai.net/articles/-/159191

    「理想の上司」に名前が挙がることもありますが、実像は?(写真:愛知県清洲公園の「信長公出陣の像」、Brunch / PIXTA)
    誰もが認める「戦国最大のヒーロー」のひとり、織田信長。
    当時、武田信玄など戦国大名の何人かも抱いていた「天下統一」を掲げ、まだ日本に伝わって間もない新兵器「鉄砲」にいち早く着目し、その天才的軍事センスで並みいる強敵・難敵を次々と撃破。
    「関所の撤廃」や「楽市楽座」などの諸政策は、旧態依然とした社会全体に広く影響を与えるなど、彼の斬新な発想力には「非凡な才能」があふれている。
    しかしその一方で、信長は時に、度を超した「残虐性」「残酷性」も垣間見せた。よく知られる「比叡山全山殺戮(さつりく)」「一向一揆殲滅(せんめつ)」などの大量殺戮も行っており、同じ戦乱の時代に生きる戦国大名の中でも、その事例数は群を抜いている。
    「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。
    本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、ヒーローとして語られることの多い織田信長の「残虐性」について解説する。

    信長は、本当に「英雄」なのか

    「戦国時代を象徴する最も偉大な人物」といえば、真っ先に「織田信長」を挙げる人は多いでしょう。

    若くして尾張(愛知県西部)を統一した彼は、「海道一の弓取り(東海道で1番の軍事力)」と呼ばれた今川義元を「桶狭間の戦い」で破り、その名を世にとどろかせます。

    やがて京の都に上洛して近畿一帯を支配下に置くと、最新兵器の鉄砲を大量に装備し、無敵の武田軍も撃破しました。「家臣団の城下町集住」や「楽市楽座の推進」など旧来の慣習にとらわれない斬新な手法を積極的に取り入れたのも信長です。

    しかし、実際の信長には、「猟奇的」ともいえる残虐な一面があったのも事実です。敵対する相手に対してはもちろん、自らの家臣に対しても、時に容赦ない冷酷な仕打ちを行いました。

    信長には、数々のたぐいまれな「天才的資質」がありましたが、それと同時に、常人には理解しがたい「嗜虐性」「残酷性」も持ち合わせていたのも、歴史が示す事実です。

    今回は、「ヒーロー」や「英雄」として語られることの多い織田信長の「影の部分」について解説します。

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    今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

    希代の天才であり、残虐な危険人物

    Q1. 織田信長はどのような人物ですか?

    1534年、尾張守護代の庶流に生まれました。幼少期より破天荒な素行を繰り返しますが、しだいに頭角を現し、ついに家督争いに打ち勝って尾張を統一します。

    その後、「鉄砲の導入」や「楽市楽座の推進」など慣習にとらわれない斬新な手法で天下統一に邁進するものの、1582年、家臣である明智光秀の謀反によって、京都の本能寺で生涯を閉じました。

    Q2. 有名な「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」の歌にある「強引な性格」は本当ですか?

    本当です。知恵を絞って「鳴かせてみせよう」の豊臣秀吉、タイミングを待ち続けた「鳴くまで待とう」の徳川家康に対して、信長のやり方は性急で強引さが目立ちます。

    たとえば信長は、かなりの「骨董コレクター」で、その収集には余念がありませんでした。

    特に、「名物」と呼ばれる最も価値の高いものについては、その所有者の意志がどうであれ強引に供出させたりカネで買い取ったりと、多くの名物を自らのコレクションにしています。

    それらに加えて、後述するように、自らに従わない者に対しては「大量虐殺」も繰り返しています。

    Q3. 「神をも恐れぬ豪胆さ」だった?

    神仏への信仰がなかったわけではありませんが、彼は死後の世界や心霊など「理屈の通らない迷信のたぐい」にはかなり懐疑的だったようです。

    実際に、彼が建築にかかわった安土城や旧二条城の石段や石垣には、破却した「墓石」や「石仏」なども資材として用いられていました。当時は現代よりも祟りや怨霊が一般に信じられていたことを考えると、こうした行為は衝撃的です。

    Q4.人間に対しても「残虐だった」のですか?

    はい。信長は「恨みを抱いた相手」にはいっさい容赦しません。

    たとえば、かつて信長を鉄砲で暗殺しようとして失敗し、指名手配中だった「杉谷善住坊(すぎたに・ぜんじゅうぼう)」という男が3年後、ついに逮捕されました。

    このとき、信長は通常の斬首ではなく、体を頭だけ出した直立状態で道端に埋め、その首を「行き交う人にノコギリで引かせて殺す」という残忍な処刑を行いました。

    またあるとき、宣教師が連れてきた黒人を見て、その「黒さ」に疑念をもった信長は、黒人を裸にして家臣にその背中を「剣山」や「金タワシ」などで削らせたという記録も残っています。真偽は不明ですが、本当ならかなりの「残虐な行為」です。

    Q5. 信長は「大量虐殺」も行いました……

    そのとおりです。信長は数々の戦いにおいて、私たち現代人の想像を超えるような「残虐性」を発揮しています。

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    織田信長による「残虐行為」のうち、数ある中から代表的なものをいくつか挙げてみましょう。

    いったい「何万人」が被害に遭ったのか

    【1】 長島一向一揆殲滅

    1574(天正2)年7月、それまで2度にわたり信長の侵攻を妨げ、彼の弟や重臣が失われるなど織田勢を苦しめた伊勢長島の一向一揆に対し、信長はほぼ総動員に近い大軍を率いてこれを殲滅しました。

    籠城する一揆軍に対し、包囲による干殺しのほか、最後は城をまるごと焼き討ちし、男女二万数千人が殺害されたといわれています。

    【2】 越前一向一揆殲滅

    1575(天正3)年8月、朝倉氏滅亡後の越前(福井県)では一向一揆が台頭し、信長の支配が及ばなくなっていたため、再び越前を取り戻すべく、信長は侵攻を開始します。

    このときの戦闘で一揆勢約2000人が討ち取られ、さらに捕虜となった1万2000人も容赦なく処刑されたといわれています。

    【3】天正伊賀の乱

    1581(天正9)年9月、信長からの支配を拒み自主独立を掲げる伊賀惣国一揆に対し、信長は大軍を率い、伊賀(三重県西部)へ至るあらゆるルートから侵攻を開始しました。集落や寺院はことごとく焼かれ、逃げ場のない人々は一方的に殺戮されました。

    一説では、「伊賀全体の人口9万のうち、およそ3万余が殺害された」といわれています。

    Q6.よく知られる「比叡山焼き討ち」は?

    1571(元亀2)年9月、越前(福井県)の朝倉氏に協力して反信長連合に加担していた比叡山延暦寺は、信長からの再三の中立勧告に背き続けたため、ついに攻撃を受けます。

    このとき、すべての堂宇は放火され、寺の僧侶はおろか山麓の町から避難してきた一般信徒も含む多くの人がことごとく殺害されたと伝えられます。

    死者数は『信長公記(しんちょうこうき)』で数千人、宣教師フロイスの書簡では約3000人、貴族の日記にも3000~4000人とあり、多くの人命が失われたと記されています。

    近年の研究調査では、文献に見られるほどの大規模火災を証明する遺構が見当たらず、「もっと小規模なものだったのでは」という疑問の声も上がっていますが、規模はともかく、古くから「都の護り」として崇められてきた比叡山をも恐れず、焼き討ちしたことは事実でしょう。

    Q7.信長は、ほかの戦国武将に比べても、特に残酷でしたか?

    残酷だったと思います。もちろん、戦乱の時代なので残酷でない武将はいませんが、それでも信長の行った殺戮の数は、戦国時代でも「突出」しています。

    Q8.信長が「突出して残酷だった」理由は?

    本人の性格によるところもありますが、幼少期から織田家の家督を継ぐまでのあいだの苦労や、それ以降の尾張国統一に至るまでの「周囲の人間に対する不信感」といった心労がストレスとなり、彼の「残虐性」を大きく加速させた可能性があります。

    また、この時代はほとんどの戦国大名にとって、「自国の領土を守ること」が戦いの主な目的でした。そのため「局地的な紛争」がほとんどで、大量の死傷者は出ませんでした。

    ところが、信長は15代将軍、足利義昭を奉じて上洛することを決心した時点から、「天下統一」「天下布武」つまり武力により天下をわが身におくことを目的としたため、つねに「他国への強引な侵攻」が続きます。

    その結果、必然的に戦いの規模は「全面戦争」にならざるをえず、多くの犠牲者を生むことになったのです。

    歴史を学ぶことは「人間の本質」を知ること

    ある正月、信長は家臣を集め、新年を祝う酒宴を開きました。宴もたけなわの頃、彼は「今日は珍しい趣向がある」と言い、広間に何かが運び込まれます。

    家臣たちが目を凝らすと、それは金箔に覆われ黄金色に輝く「ドクロ」。前年に滅ぼした宿敵、浅井・朝倉氏の首を加工したものでした。

    家臣たちは言葉を失ったまま、その様子をじっと見守っていると、信長はドクロに酒を注ぎ、家臣に飲むことを強要。拒めない彼らは身を震わせながら次々と「ドクロの杯」に口をつけたといいます。

    その一方で、信長には「優しい人柄」を表すエピソードも残されています。

    秀吉の妻「ねね」の訪問を受けた信長は、彼女から夫の女性問題に関する悩みを聞かされます。ほどなくして信長は、彼女に手紙を送り、「まったくとんでもない男だ。あなたほどのすてきな女性に、あの禿げ鼠(秀吉)はもったいない!」と彼女を励ましたというエピソードも残されています。

    織田信長は、信頼していた部下の明智光秀に裏切られ、「本能寺の変」で生涯を閉じます。しかし、織田信長という「偉大な英雄」の登場なくして、現代に続く日本の歴史はまず考えられないでしょう。

    そんな信長にも、人間として「いろいろな面」があったのも事実です。人間は「複数の顔」をもつ多面的な存在で、歴史を学ぶことはそうした「人間の本質」を知ることでもあります。

    歴史には、小説以上に「人間を考える材料」が満ちあふれています。ぜひ日本史を学び直すことで、「身近な人をより深く知るきっかけ」にしてください。

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  2. shinichi Post author

    NHK大河ドラマではとても放送できない…豊臣秀吉の史実に残る「残虐すぎる悪行の数々」をご存じか

    しかも権力を得てから残忍な性格になったのではない

    by 濱田浩一郎
    PRESIDENT Online

    https://president.jp/articles/-/68103

    貧しい身分から出世し天下統一を果たした豊臣秀吉とはどんな人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「目的のためなら人の命を何とも思わない武将だった。それは、彼が行った城攻めに見ることができる」という――。

    「どうする家康」の秀吉はなんだか不気味

    NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優のムロツヨシさんが豊臣秀吉を演じている。織田信長の家臣として登場した秀吉であるが、ムロさんの「怪演」もあり、話題となっている。

    秀吉の初登場は第4回「清須でどうする!」(1月29日放送)だった。織田家重臣の柴田勝家に「猿!」と呼ばれて、「へいへい、へーい!」と登場した秀吉に対し、勝家は背後から急に蹴りをくらわす。

    秀吉は怒りに震えるのかと思いきや、それを気にもとめていない様子。そればかりか、信長と会見するため清須に来ていた松平元康(徳川家康)一行にも、なぜか、尻を向けて、蹴りを要求するのであった。

    家康に対し、秀吉が信長の戦のやり方について解説するシーンでは、嬉しそうに話をしているようでいて、秀吉の目の奥は醒めたままだった。その様子にSNSでは「狂気が感じられる」「闇深い」「不気味」などの感想が相次いでいた。

    貧しい境遇から、信長に仕えて立身出世し、ついには天下統一を成し遂げた。

    そんな秀吉は、これまで何度も時代劇や大河ドラマ、歴史小説などに取り上げられてきた。フィクションに描かれてきた秀吉の性質にはいくつかのパターンがある。

    決して天下を獲ったから傲慢になったのではない

    例えば、1996年に放送された大河ドラマ「秀吉」は、秀吉役を竹中直人さんが演じ、その明るくパワフルな演技が話題となった作品だ。そこでの秀吉は、織田家臣時代では庶民的で命を重んじていたが、出世とともに、傲慢になっていく姿が描かれていた。

    同じく大河ドラマ「軍師官兵衛」(2014年)では、2度目の秀吉を演じた竹中直人さんが、甥の豊臣秀次一族の惨殺や、朝鮮出兵など、天下を取った後の堕ちてゆく太閤を演じた。

    剽軽、明るい、人たらし。しかし、時を経て権力を得るに従ってその性格は変質し、残忍で傲慢な「専制君主」となっていく……。多くの方が想像する秀吉像は、ざっとこのようなものではないか。

    しかし、史実はそうではなかったのである。彼による「悪行」は、年齢を問わず行われており、またとてもドラマでは放送できないようなものなのだ。

    女・子供200人を串刺しに

    まず挙げられるのは、上月城落城後の行動である。

    天正5年(1577)、秀吉は、信長から毛利家の支配する中国地方の攻略を託され、播磨国・上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を攻めた。

    上月城に籠るのは、毛利方の武将・赤松政範。上月は、播磨・備前・美作3国の境界に位置し、交通の要所だったため、秀吉はここを抑えて、西国の大大名・毛利氏を攻めようとしたのだ。

    では、秀吉はこの城をどのように攻めたのか? それは、秀吉が国元(近江国)にいる家来の下村氏に宛てた書状(下村文書)に記されている。

    同年11月28日、城を包囲した秀吉軍。彼らが最初にやったことは、籠城側の水の手を断つことだった。そうしたこともあり、籠城側は忽ちのうちに困窮。秀吉方に色々と詫び言(降伏するとも伝えたのだろう)を言ってきたが、秀吉はそれを跳ねつけた。

    そればかりか、垣を3重にして、籠城する兵士らが逃亡するのを許さなかった。その上で、あらゆる場所から、秀吉軍は攻撃を仕掛ける。12月3日、城に攻め込んだ秀吉軍は、敵兵の首をことごとく刎ねたのである。

    これで終わりではない。むしろ秀吉の残虐性はその後に露わとなる。

    城内にでもいたのであろう女・子供200人ばかりを備前・美作・播磨の国境に連行。子供は串刺しに、女性は磔にして虐殺したのである。

    エグすぎる「三木の干殺し」

    秀吉は、なぜそのような残虐行為を命じたのか。秀吉自身の言葉によると「敵(毛利)方への見せしめ」のためであった。

    しかし、いくら敵への見せしめのためとは言え、非戦闘員である女性や子供を残忍な方法で大量に処刑するということは、戦国時代とはいえ、そう多いものではない。

    秀吉の城攻めにおける苛烈さはこれだけではない。翌年の天正6年(1578)から始まる播磨の三木城(城主・別所長治)攻めの際も、秀吉は「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを展開している。

    毛利方の援軍を待つ、別所は兵士だけではなく、家族や浄土真宗の門徒も含まれる「諸籠もろごもり」を決行した。その数およそ7500人。

    秀吉は補給路を断つため、周辺の支城を次々に撃破。城内の食糧は次第に尽きていき、籠城する兵士たちは、鶏・牛・馬・犬などの動物を喰らい、それも尽きると、人肉を食するという「異常事態」となるのである。

    1年10カ月後、追い詰められた城主・別所長治は、城兵の命と引き換えに自ら命を絶ったという。しかし、秀吉はその約束を守らなかったとされる。残った城兵は秀吉により、ことごとく殺害されたのであった。こうしたところも、秀吉の性格の低劣さを示しているだろう。

    すさまじすぎる「鳥取の飢え殺し」

    勝利した秀吉は、次に鳥取城(城主・吉川経家)に攻め込む。

    事前に商人を通じて米を高値で買い占め、米価を吊り上げた。これにより、鳥取城内では兵糧米の横流しが行われた。そこに城の周辺に十数もの砦を築いて要衝とし、補給ルートを完全に遮断。

    鳥取城(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons)鳥取城(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons)
    籠城側はわずか一カ月で兵糧が尽きたという。餓死者が続出し、三木城のときと同じく城内では人肉を食する行為を行われたとされる。

    秀吉と同時代を生きた竹中重門による伝記「豊鑑」には、

    食料が尽きたため馬や牛を代わりの食料にするがそれもすぐに尽きて餓死者が出たため、今度は死んだ人間の肉を食べている。子供は自分の親の死肉を食べ、弟は兄の死肉を食べている。

    とある。この城攻めは「鳥取の飢え殺し」と呼ばれている。

    ここに明るく剽軽な男の姿はどこにも見当たらない。ただただ残虐なやり方といえる。信長からの中国地方攻略の命に完璧に従ったとはいえ、戦国の世とはいえ、ここまでやるとはいかがなものか。

    おそらく、秀吉は自分の目的の遂行のためであれば、他人の命を躊躇しないのであろう。この思考は、晩年に顕著になる。

    血縁の民間人を簡単に殺害

    キリスト教の宣教師ルイス・フロイスは、著書『日本史』において、天下統一を果たしたのちの秀吉の残忍さを記述している。

    天正15年(1587)、秀吉は、自らの出生地である尾張国に、血縁関係にある貧しい姉妹がいることを聞きつける。彼女らは貧しい農民であったという。

    秀吉は「彼女らを姉妹として認めよう、然るべき待遇をしよう」と、その姉妹に伝達。彼女らはその事を望んでいなかったようだが、強引に都に呼び寄せられる。姉妹は、運と幸運が授けられたと思い、できる限りの準備をして、幾人の身内の女性と一緒に都に出向いたという。

    しかし、彼女ら姉妹は、京に入るやいなや、すぐに捕縛され、首を斬られてしまったのである。

    なぜ、秀吉は血縁であったと思われる民間人を殺害したのか。フロイスは「彼(秀吉)は己の血統が賤しいことを打ち消そうとし」てそのような酷い行いをしたと書いている。

    大阪城内に300人以上の娘を囲う

    女性と言えば秀吉はたいへんな女好きであった。しかもその性欲は老人となってからも、衰えを見せなかったようだ。ルイス・フロイスは次のように記している。

    「齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた」(『日本史』)

    また同書には、秀吉が諸国を訪問する目的の1つは、美しい「乙女」を探すことだったと書いてある。

    秀吉は天下人であり、その権力は絶対であったので、その意向に背く者などおらず「国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で(娘たちを)収奪した」という。

    この話がどこまでが本当か分からない面もあるが、人間を軽く見ていたのは確かだろう。

    秀吉は、天下を獲る前も、獲ってからも、残忍で陰険な手段により、人々を殺してきた。目的のためには人の命を何とも思わないその所業は、とてもドラマで描けるものではないであろう。

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  3. shinichi Post author

    NHK大河ドラマを信じてはいけない…妻子を殺処分した徳川家康が織田信長に抱いていた本当の感情

    脚本の前提は「最新の研究結果」と矛盾する

    by 香原斗志
    PRESIDENT Online

    https://president.jp/articles/-/71682

    織田信長と徳川家康の関係はどんなものだったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「同盟相手ではあるが、事実上の主従関係にあった。家康にとって信長に従属するメリットは大きく、信長を殺そうと考えたことはなかっただろう」という――。

    これはあり得ないと思った家康のセリフ

    戦慄せんりつを覚えた視聴者も少なくなかったのだそうだ。NHK大河ドラマ「どうする家康」の第26話「ぶらり富士遊覧」(7月9日放送)のラストシーンで飛び出した徳川家康(松本潤)のセリフに対して、である。

    第25話「はるかに遠い夢」(7月2日放送)で、有村架純演じる正室の築山殿(ドラマでは瀬名)と嫡男の松平信康(細川佳央太)を死にいたらしめた家康だったが、それから2年余り。武田勝頼(眞栄田郷敦)を滅ぼして安土に帰る途中の織田信長(岡田准一)を、富士山麓で手厚くもてなすなど、以前と違ってどこまでも信長に従順な家康に、家臣たちは不満を募らせるばかりだった。

    そしてある晩、家臣たちが家康に詰め寄り、本多忠勝(山田裕貴)は「左様なふるまいを続けるなら、ついていけませぬ」と言い捨て、酒井忠次(大森南朋)は「そろそろ、お心うちを」と問いかけた。すると、家康は「わしもそう思っておった」といい、こう言葉を継いだのである。

    「信長を殺す。わしは天下をとる」

    これを、本能寺の変の黒幕が家康だという説かもしれない、と受けとる向きも多く、ドラマの続きへの関心が高まっているようだから、視聴率アップには貢献するかもしれない。だが、そもそも、家康が「信長を殺す」という発言をする可能性があったのか。あったとすれば、その根拠はなにか。

    結論を先に述べるなら、そんな可能性はなかったというほかないのだが、では、「どうする家康」では、どんな根拠にもとづいて家康にそう発言させたのか。そこを最初に明らかにしておきたい。

    「信長を殺す」発言が出たワケ

    第26話では、まず徳川軍が取り囲んでいる高天神城からの降伏の申し出を、家康が無視する場面が描かれた。家康が「降伏は受け入れぬよう上様(信長)からいわれておる」というと、家臣たちは無益な殺生に猛反発するが、家康は「上様の命じゃ。やつらを皆殺しにしろ」と平然と命じる。

    妻子を失ってから家康が変わってしまった、と家臣たちは受け止めており、彼らの声を代表するのが、本多忠勝の「信長の足をなめるだけの犬になりさがってしまった」という言葉だった。

    また、毛利攻めで忙しい羽柴秀吉(ムロツヨシ)がわざわざ家康を訪ねてきて、こう言った。「わしは徳川殿が心配で、心配で。信康殿と奥方さまの。上様を恨んでおるのではないか?」

    これに対して、家康は「私が決めたことです。すべては妻と息子の責任です」と答えはするのだが。

    ほかにも、武田勝頼を徳川軍が直接討てなかったことや、信長を派手にもてなしたことなどについて、家臣団はいちいち「信長の犬」になった家康に呆れ、本多忠勝や榊原康政(杉野遥亮)らは我慢の限界に達する。そして、ついに家康に詰め寄ったところ、家康も信長にこびる表の顔の裏側を見せ、「信長を殺す」を発言した――。そんな話だった。

    家康にも家臣にも信長を恨む理由がない

    だが、ドラマのこの展開にはかなりの無理がある。

    まず、高天神城の攻防戦だが、信長が高天神の籠城衆の降伏を許さなかったのは、状況を深く読んだうえでの作戦だった。武田勝頼が高天神の城兵を見殺しにした、という怨嗟の声が広がれば、勝頼の信頼が失われて次々と離反を招くはずだ、というのが信長の読みで、これが見事に的中した。

    だからこそ、信長と家康は武田を滅ぼすことができた。高天神の籠城衆は「皆殺し」に近いことになっても、全体としては、失われる人命も少なくて済んだはずである。

    また、ドラマでは家康が変わってしまったのは、築山殿と信康の命が失われたことがきっかけで、ひいては2人が死に追いやった信長のせいだ、という描き方である。

    妻子の死の責任はあくまでも家康自身

    しかし、家康が2人の処分を決めたのは、築山殿が武田と内通し、信康がそれに同調し、徳川の家臣団が分裂する危機にさえあったからだと考えられている。

    そもそも、家康の家臣は武田に対して主戦論を唱える者が中心だった。それなのに妻子が武田と内通していては、まとまる家臣もまとまらない。そんな状況では、家康は妻子を処断するほかなかった。それが近年の通説で、家臣たちが築山殿と信康に同情し、彼らに死を強いた信長を恨む、という状況にはなりえなかっただろう。

    それは家康に関しても同じである。妻子の死の責任はあくまでも家康自身にあり、信長を逆恨みするような話ではなかった。自身の妻子が年来の宿敵と内通していたら、同盟相手であり事実上の主君に対して申しわけが立つはずがない。家康には2人を罰するほかに、状況を打開する道はなかった。

    事実、信康事件以後、家康と信長の関係が悪化したという記録はない。

    むしろ「主従関係」を大切にしていた家康

    たしかに、武田との最後の戦いでも、平山優氏が「家康は武田氏の討滅を達成する過程でも、織田信忠に忖度そんたくし、遠江や駿河での進軍を遅らせているし、信長の帰国に際しては家中を挙げての接待と心配りを行うなど、気が休まる時がなかったであろう」と記す状況ではあった(『徳川家康と武田勝頼』幻冬舎新書)。

    しかし、こうして信長に付き従ったからこそ、家康は宿敵武田氏を滅ぼし、念願の駿河(静岡県東部)を領国にすることができたのだ。

    この駿河について黒田基樹氏は、「家康が自力で計略したものではなく、『天下人』信長から与えられたものであった。このことは家康が、信長に従属する大名の立場になっていたこと、さらに領国を与えられたということで、信長とのあいだに主従関係があることを明確に示すものであった」と書く(『徳川家康の最新研究』朝日新書)。

    逆にいえば、家康は領国を守り、さらに拡大するために、この「主従関係」を非常に重んじていたということである。

    絶好調のグループ会社の経営トップにだれが逆らうか

    柴裕之氏は『徳川家康』(平凡社)のなかに、次のように書き記している。

    「実際に信長が進めた天下一統事業とは、戦国大名や国衆の領国自治を否定することはなく、むしろそれを前提として、天下=中央が諸地域『国家』を政治的・軍事的な統制と従属関係のもとに統合することであった。それは、織田権力の天下のもとに築かれた『国家』(統合圏)に諸地域を取り込むような、現代の企業にたとえるなら、グループの子会社化であったとイメージしてもらえればよい」

    しかも、この当時、信長は織田家の家中にとどまらず、かなり広く「公儀」「天下」「上様」などと呼ばれ、すでに統一権力であると認識されていた。柴氏のたとえでいうなら、織田グループは破竹の勢いで業績を伸ばして覇権を築き、それが周囲にも認められていた。

    グループ下で、十分な利益を得ている子会社の社長が、グループのトップに恨みをもちクーデターを考えるなどということがありうるだろうか。ましてや、子会社の社員たちが、グループのトップに従順な子会社社長の姿勢に対して我慢の限界に達するなど、あるわけがない。

    もはや歴史ドラマではない

    信長とのあいだに「主従関係」がある以上、家康が「信長の犬」のようにふるまうのは当たり前のことで、当時の常識からして、家康の家臣はみな、それを当然のこととして受け入れていたはずである。きっと脚本を手がけた古沢良太氏も、そのことはわかっているのではないだろうか。だから、家康は妻子の命を奪った信長が許せない、という見せ方をするのだろう。

    実際、第27話「安土城の決闘」でも、妻子の死があってから、以前のようには信長に仕えることができない家康に向かって、信長が「妻子を死なせてすまなかったとオレが頭を下げれば気が済むのか? オレは謝らんぞ」といった発言する場面があったようだ。

    しかし、何度も言うけれど、妻子の失態は家康が招いたことであって、家康が自らの判断で彼らを処断したというのが、研究者たちの共通認識である。

    家康がこの件で信長を逆恨みしつづけ、挙げ句、「信長を殺す」と発言するなど、家康が冷静な判断ができないよほどの愚将だったならともかく、ありえない。

    もし、かつて考えられていたように、築山殿と信康の死が信長の指示によるものであったなら、ドラマで家康に「信長を殺す」を発言させ、そこにリアリティをあたえることも可能だっただろう。それなら歴史ドラマの脚本として「アリ」かもしれない。

    しかし、史料や近年の研究成果などから明確に否定されることを、脚本の大きな前提として採用してしまっては、もはや歴史ドラマではない。番組の最後に「このドラマはフィクションであり、実在の人物や団体などとは関係ありません」というテロップを流すなら話は別だが……。

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  4. shinichi Post author

    徳川家康は「日本人に嫌われる性格」の典型だ

    「スゴい成功者」なのに…理由は4つあります

    by 山岸良二

    https://toyokeizai.net/articles/-/133251

    なぜ家康は嫌われる?

    【理由1】「華々しさ」も「潔さ」もない

    家康には、私たち日本人が好む「ヒーロー」の要素がありません。

    源義経や織田信長、真田幸村など日本人が好きな武将には、「戦場で華々しく活躍する英雄」としての姿や、逆に「志半ばで潔く散っていく悲劇の英雄」としての姿があります。また豊臣秀吉には、「農民の子から天下人へ大出世した」という物語があります。

    これに対して家康は、武田信玄に惨敗した「三方ヶ原の戦い」では命からがら逃げる途中、馬上で「お漏らし」しながらもしぶとく生き長らえました。また、「権力者」である秀吉に勝てないと悟ると、すぐさま屈服し、関東への転封を命じられると、意地やプライドはあっさり捨てて受け入れてしまいます。

    日本人が好む「華々しく活躍する英雄」あるいは「潔く散る悲劇の英雄」、そのどちらの姿がないのも、家康が日本人に好かれない一因でしょう。

    【理由2】「義理」を重んじない「薄情さ」

    日本人の大好きな「絆」も、家康にとってはしょせん、出世のための「ツール」にすぎません。

    まだ三河の小大名だったころは隣国の今川義元に従属していましたが、「桶狭間の戦い」で織田信長が義元を破ると、今川を見限って織田と同盟を結びます。

    その信長が「本能寺の変」に倒れると今度は豊臣秀吉に従いますが、秀吉が病で死去するや豊臣家をないがしろにし、ついには「大坂の陣」で豊臣家を滅亡へと追いやります。

    こういう「義理」に薄い、「人情」を大切にしない「薄情さ」が、日本人に嫌われる要因でしょう。

    【理由3】「タヌキおやじ」と呼ばれる「ズル賢さ」

    彼の政治手腕は、「タヌキおやじ」と陰で称されるほど「狡猾」です。

    三河の大名時代、領内での一向一揆に手を焼いていた彼は、いったん一揆側と和睦を結び、彼らを解散させます。しかし、一揆側が解散するや否や、途端に手のひらを返して、武力で一揆側を弾圧しました。

    後の「大坂の陣」でも、最初の「冬の陣」で豊臣秀頼と表面的には和睦しながらも、その陰で大坂城の総堀を埋め、翌年の「夏の陣」では豊臣家を滅ぼすというやり方も「狡猾」そのものです。そういう「ズル賢さ」「狡猾さ」が、家康が嫌われる一因でしょう。

    【理由4】目的のためには手段を選ばず、それで成功した「しぶとさ」

    家康が嫌われる最大の理由は、天下統一を果たし幕府を開くという「大偉業」を成し遂げたことに対する「嫉妬」でしょう。

    【理由1~3】でも述べてきたとおり、家康の行動基準は「つねに自分が生き残る」ことです。

    そのためには、「義理人情」どころか「恥や外聞」もかなぐり捨ててズル賢く世渡りを続け、自分だけが最後まで生き抜くことを「しぶとく」追求し続けました。そして、ライバルの誰よりも「しぶとく」長生き(75歳)しました。

    そもそも私たち日本人は元来、成功者に対して、「や」っかみ、「ね」たみ、「そ」ねみを抱く、いわば「ヤマト」ならぬ「ヤネソ」民族です。

    そのため、「目的のためには手段を選ばず、結果として目的を達成した」家康に対して、私たちはその偉大な業績には尊敬の念を抱きつつも、同時に強い「嫉妬心」や「単純に好きになれない複雑な気持ち」にかられてしまうのでしょう。

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  5. shinichi Post author

    信長・秀吉・家康…天下を取った男たちの身の毛もよだつ処刑法

    by 濱田浩一郎

    https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/3428

    信長の残酷行為は当時の人々のトラウマに

    織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、戦国三英傑として、現代の人々にも人気を博しています。「この3人の中で、誰が最も残酷か?」との質問には、多くの人が「織田信長!」と答えるのではないでしょうか。

    比叡山延暦寺の焼き討ち、一向一揆の弾圧……そういった信長の所業は、日本史の教科書にも特筆されていますし、現代の時代劇においても何度も描かれてきたからです。確かに信長が、多くの人々を殺めてきたのは事実です。元亀2年(1571)9月には、浅井・朝倉氏に与する比叡山延暦寺を焼き討ち。「根本中堂・山王二十一社、一堂一宇余さず焼き払われた」と信長の一代記『信長公記』(著者は信長の家臣・太田牛一)にはあります。

    それだけでなく、山の下にいた老若男女「僧俗・児童・学僧・上人」を捕らえて、首を刎ねたのです。「悪僧は首を刎ねられても仕方ありませんが、私どもはお許しください」と命乞いする女性や小童までをも、信長は許さず、首を落としていったのでした。数千の死体が辺りに散乱していたと言います。

    また、謀反を起こした荒木村重一族の処刑も凄惨なものでした。寺に大きな牢屋を拵え、そこに30人ほどの女子を入れ、家臣の屋敷の牢屋にも荒木一族の者を押し込めていましたが、信長は「武将の妻子を選び、磔にせよ」と命じるのです。天正7年(1579)12月13日、120人の婦女子が尼崎の近くで処刑されました。幼子は母親に抱かせたまま、引き上げられて、磔にかけ、銃殺されたのです。

    また、槍や長刀で次々と刺殺されていきます。阿鼻叫喚の声が、天にも響くばかりだったと言いますし、その光景を目撃した者は、約1ヶ月は凄惨な光景が目に焼き付いていたそうです。

    別の500人は、4つの家に押し込められて、焼き殺されました。周囲に積まれた草に火をつけ、その火によって焼死したのでした。見物人は余りの悲惨さに目を覆い、二度とその様を見ることはできなかったとのこと。私はこうした記述を見るたびに、時代と規模は違いますが、ナチスドイツのヒトラーによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を想起してしまいます。

    信長を狙撃した鉄砲の名手・杉谷善住坊にも、悲劇的な最期が待ち受けていました(1573年)。近江国で捕縛された善住坊は、直立のまま土中に埋められ、首を鋸でひかれて処刑されたのです。「上下一同、これ以上の満足はなかった」(『信長公記』)と書かれていますので、特に織田方にとっては、いくら凄惨な処刑でも“大満足”だったのでしょう。

    自分と血縁関係のある姉妹を呼び殺した秀吉

    さて、信長の家臣・羽柴(豊臣)秀吉と言えば「太閤様」として、特に大阪では親しまれてきましたし、これまでの多くの時代劇の描かれ方からして、剽軽(ひょうきん)な「良い人」とのイメージがあるかもしれません。

    しかし、彼もまた主君と同じような残酷処刑を行っているのです。天正5年(1577)に播磨国の上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を攻撃した秀吉。「水の手」を奪ったこともあり、城内の将兵は疲弊。降伏を申し出てきたが、秀吉は拒否。垣を三重に築いたうえで、逃亡を防ぎ、攻撃を仕掛け、ついに城を落とすのです。敵兵の首は悉く刎ねられたと言いますが、それだけではありません。

    城内にいた女・子ども200人余りを「播磨・美作・備前の国境」において、処刑したのです。子どもは串刺し、女性は磔という凄惨な方法によって。非戦闘員まで残酷な方法で処刑するということは、そう多くはありません。敵対する毛利方への“見せしめ”の意味もあったのでしょうが、言葉がありません。

    また、関白になってからの秀吉は、自らの血縁にある者を探し出して殺したりもしたようです。尾張国に住む貧しい農民の姉妹が、自らの血縁にあると知った秀吉は「それ相応の待遇をしよう」と言い、強引に彼女らを都に呼びつけます。

    彼女たちは、天下人からの誘いに喜んだのでしょう、幾人かの身内を連れて京都に上っていく。ところが、 その女性たちは京都に着くやいなや、すぐに捕縛されて、斬首されてしまったのです(ルイス・フロイス『日本史』)。秀吉は自分の出自が貧しく「賤しい」ことを打ち消そうとしたとも言われますが、こうした話の数々を見ていくと、秀吉もまた残忍な人物だったことがわかります。  

    家臣を生き埋めにして首を切らせた家康

    徳川家康。「戦国三英傑」のなかで、一番残虐ではないように思います。家康は確かに、信長のように大寺院を焼き討ちしたり、婦女子を殺害したりはしていません。また、秀吉のように、卑怯な方法で民間人を処刑したりはしていないと思います。しかし、それでも謀反を起こそうとした大賀(大岡)弥四郎を残忍な方法で処刑しています(1575年頃か)。捕縛された弥四郎は、自分の妻子が磔になっている様をまず見せつけられました。

    浜松を引き回され、岡崎に戻されたあとは、牢に入ります。岡崎の街の辻には、穴が掘られていました。そこに弥四郎を埋めるためです。土中に埋められた弥四郎は、指を十本切られ、切られた指を見せられる。続いて、足の筋を切られ、逃げられないようにしたうえで、顔だけ出して、体を土中に埋められたのです。そして、竹の鋸もしくは鉄の鋸で、弥四郎の首を通行人にひかせたのでした。一日のうちに弥四郎は死亡したと言います。

    大坂冬の陣(1614年)においても、家康は捕縛したスパイのような男の「手足の指を全て切れ。そして、額には(豊臣)秀頼との文字を烙印し、大坂城中に返せ。見せしめとせよ」と命じています。処刑こそされていませんが、手足の指を全て切るというのは、なかなか残酷です。

    戦国武将は「野蛮」だったのか?

    「戦国三英傑」の処刑法の一端を見てきましたが、このような処刑法を見て「昔の人は野蛮だったんだな」と思うことは当たりません。

    明智光秀が波多野氏が籠る丹波八上城(兵庫県篠山市)を攻略したときは、城兵は切り殺されましたが、非戦闘員までは処刑されていません。信長が美濃岩村城を攻めたときも、城主は磔になっていますが、無関係な女・子どもまでは殺されてはいません。非戦闘員まで大量に処刑される事例は、そうそうないように思われます。

    敵方に恨みなどをもっている武将にとっては、憎い者を成敗してせいせいしたと思う場合もあったでしょう。しかし、あの信長であっても、何も好き好んで、荒木一族の女性たちを成敗したのではなく、彼女らを不憫に思っていたこと、成敗の目的として、背いた荒木村重を懲らしめる意味合いがあったこと(『信長公記』)も併せて記しておく必要があるでしょう(秀吉の考えについてはわかりませんが、私は秀吉は信長よりもかなり残酷な性格だったように感じます)。

    そうした意味において、武将(武士)と庶民の虐殺に対する受け止め方にも、それほど大きな差があったようにも思われません。

    そして、現代でも世界中を見渡せば、残虐な方法で殺害され、命を奪われている人々が大量にいるという現実があります。ウクライナ戦争が始まった2022年だからこそ、そのことを深く考えたくなります。

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