震災見舞(志賀直哉)

 軽井沢、日の暮れ。駅では乗客に氷の接待をしていた。東京では朝鮮人が暴れ廻っているというような噂を聞く。が自分は信じなかった。
松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追いかけるのを見た。
「殺した」すぐ引き返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、あまりに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。
 高崎では一体の空気がひどく険しく、朝鮮人を七八人連れて行くのを見る。
**
 そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでいる時だった。ちょうど自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者が落ち合い、二人は友達らしく立ち話を始めた。
 「―叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかったのがある―」刺子の若者が得意気にいった。「―鮮人が裏へ廻ったてんで、すぐ日本刀を持って追いかけると、それが鮮人でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ねちょっとこっちを見、言葉を切ったが、すぐ続けた。「しかしこういう時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」二人は笑っている。ひどい奴だとは思ったが、平時そう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた。

2 thoughts on “震災見舞(志賀直哉)

  1. shinichi Post author

    田山花袋
    朝鮮人が追われて、家の縁の下に逃げ込んだのを、引きずり出してなぐってやった。
    (『中央公論』の編集者・木佐木勝の日記より)

    内村鑑三
    9月22日の日記
    民に平安を与ふる為の軍隊であると思へば、敬せざるべからず、愛せざるべからず。
    (戒厳令と軍隊出動に感謝するとともに、自身も自警団に入って夜警を勤めている。)

    宮沢賢治
    当時賢治は、日蓮宗の立場から様々な改革を唱える田中智学に傾倒し、智学が主宰する国柱会の会員だった。ちなみに石原莞爾も会員。田中智学は、朝鮮人排撃を主張し「鮮人暴動」など無根の報道を流布する『天業民報』を発行していたが、賢治はそれを町の辻々に張りまわった。
    賢治が朝鮮人への排撃を主張した文章は発見されていないが、不可解なことは多くある。

    宮武外骨
    「日鮮不融和の結果」
     今度の震災当時、最も痛恨事とすべきは鮮人に対する虐遇行為であった。
    その誤解の出所は不明としても、不逞漢外の鮮人を殺傷したのは、一般国民に種族根性の失せない人道上の大問題である。
     要は官僚が朝鮮統治政策を誤っている余弊であるにしても、我国民にも少し落ちついた人道思想があったならば、かほどまでには到らなかったであろう。
     根も葉もない鮮人襲来の脅しに愕いて、自警団が執りし対策は実に極端であった。誰何して答えない者を鮮人と認め、へんな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りがなくても骨相が変っていると鮮人と認め、骨相は普通でも髪が長いから鮮人だろうと責め、はなはだしいのは手にビール瓶か箱をもっていると毒薬か爆弾を携帯する朝鮮人だろうとして糾問精査するなど、一時は全く気狂沙汰であった。
     北海道から来た人の話によると、東京から同地へ逃げた避難者は警察署の証明を貰いそれを背に張って歩かねば危険であったという。

    Reply
  2. shinichi Post author

    (sk)

    100年前の日本人を好きになれない。当時の空気感がとても嫌だ。

    400~500年前の殺戮者たちを英雄視する今の日本人も好きになれない。

    人は集団になった時にその強さを発揮するというが、日本人が集団になった時はこわい。

    憲法9条は日本人の凶暴性を抑えるために占領者たちがセットしたトリックだったのではないか。

    時々、僕は、自分が日本人であることを認めたくなくなる。

    僕は、シベリアンエスキモーだ!!

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *