中城ふみ子

愛されしこともはるけく朝かぜに枝剪られある春の街路樹
赤の他人となりし夫よ肌になほ掌型は温く残りたりとも
熱き掌のとりことなりし日も杳く二人の距離に雪が降りゐる
失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ
大楡の新しき葉を風揉めりわれは憎まれて熾烈に生たし
音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる
外界のはかなき壁としてふたりが持つ小鳥の籠とラテン音楽
悲しみの結実の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ
唇を捺されて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかに成さる
黒き裸木の枝に紐など見え乍ら縊れしわれは居らざる或日
子が忘れゆきしピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙へり
コスモスの揺れ合ふあひに母の恋見しより少年は粗暴となりき
砕氷をとほく棄てにゆく馬車とならびて青の信号を待つ
捌かるる鞭なきわれのけだものはしらじらとして月光にとぶ
倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て
自転車のかげ長く西陽に曳きゆきてこの人もあまり倖せならず
忍びやかにけもののよぎる束の間の移り気よ春の雨温くふる
社会意識してと責めて記者きみが呉れゆきし三Bの太き鉛筆
衆視のなかはばかりもなく鳴咽して君の妻が不幸を見せびらかせり
手術室に消毒薬のにほひ強くわが上の悲惨はや紛れなし
出奔せし夫が住みゐるてふ四国目とづれば不思議に美しき島よ
シユミーズを盗られてかへる街風呂の夕べひつそりと月いでて居り
スケートの刃もて軟かき氷質を傷つけやまぬこの子も孤り
背のびして唇づけ返す春の夜のこころはあはれみづみづとして
たれのものにもあらざる君が黒き喪のけふよりなほも奪ひ合ふべし
とんぼの翅惨くむしれる少年よ汝の父には愛されざりし
乳牛の豊かなる腹照らし来し夕映ならむわれも染まらむ
灰色の雪のなかより訴ふるは夜を慰やされぬ灰娘のこゑ
母を軸に子の駆けめぐる原の昼木の芽は近き林より匂ふ
春のめだか雛の足あと山椒の実それらのものの一つかわが子
春芽ふく樹林の枝々くぐりゆきわれは愛する言ひ訳をせず
光りたる唾ひきしキスをいつしんに待ちゐる今朝のわれは幼し
ひざまづく今の苦痛よキリストの腰覆ふは僅か白き粗布のみ
冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか
無縁なるものの優しさ持ち合ひて草食む牛とわれとの日昏れ
メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ
ものの言へば声みな透る秋日ざしわれの怒りもはかなくなりぬ
もゆる限りはひとに与へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず
やきつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ
われに似しひとりの女不倫にて乳削ぎの刑に遭はざりしや古代に
われに最も近き貌せる末の子を夫がもて余しつつ育てゐるとぞ
死後のわれは身かろくどこへも現れむたとへば君の肩にも乗りて
夏雲の湧きて止むなき願望の内にいつしかわれを失ふ
ヒマラヤに足跡を追ひ迫るとき未知の雪男よどこまでも逃げよ
放射能もつ魚となり漂はむわれに暮靄の海ひとつあれ
わがために命の燃ゆる人もあれ不足の思ひ誘ふ春の灯
悦びの如し冬藻に巻かれつつ牡蠣は刺を養ひをらむ
水の中根なく漂ふ一本の白き茎なるわれよと思ふ
生涯に二人得がたき君故にわが恋心恐れ気もなし
音高く夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われてゐる
救ひなき裸木と雪のここにして乳房喪失の我が声とほる
葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せの我の背中はまだ無瑕なり
灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽の如くに今は狎らしつ
遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ
灼きつくす口づけさへも目をあけて受けたる我をかなしみ給へ
胸のここはふれずあなたも帰りゆく自転車の輪はきらきらとして
瑠璃いろの朝に想へばこの子らを生みたるほかに誇ることなし

2 thoughts on “中城ふみ子

  1. shinichi Post author

    中城ふみ子

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/中城ふみ子

    中城ふみ子は1922年(大正11年)11月、北海道河西郡帯広町で生まれた。婚姻前の本名は野江富美子である。地元帯広の帯広尋常高等小学校を卒業後、北海道庁帯広高等女学校に進学する。少女時代のふみ子は文学作品を読みふける文学少女であった。また、帯広高等女学校時代から短歌を詠み始めた。高等女学校を卒業後は上京して、東京家政学院に進学する。東京家政学院時代のふみ子は恵まれた教育環境、良き友人らに恵まれて青春時代を謳歌する。その中で学院で文学を教えていた池田亀鑑から、和歌の薫陶を受ける。

    青春を満喫した東京家政学院時代が終わると、実家から即座にお見合いの話が持ち込まれ、婚約が成立したもののふみ子の意志で破棄をする。しかし1942年(昭和17年)、鉄道省の札幌出張所に勤めていた中城博と婚姻することになった。中城博とは性格が合わず、結婚当初から大きな不満を抱いていたふみ子であったが、生後3か月で亡くなった次男の徹を含め、4人の子宝に恵まれた。

    夫・中城博はやがて業務上の不正行為が原因で出世コースから外れ、その上、愛人を作るようになった。夫婦仲の亀裂は徐々に深刻化していき、ふみ子は短歌に生きがいを見い出すようになる。中城博は1949年(昭和24年)8月には国鉄を退職し、ふみ子の実家である野江家の援助を受けて帯広で高校教師の職に就くもすぐに退職してしまい、その後、建設会社で働き出したもののそこでも問題を起こし、結局1950年(昭和25年)5月に夫婦別居となった。

    戦後、ふみ子は短歌結社に参加し、自作の短歌を発表していた。1949年からは帯広の「辛夷短歌会」に参加し、そこで大森卓と出会う。大森は重い結核にかかっていたが短歌に強く傾倒しており、ふみ子は短歌に傾倒する大森に激しい恋愛感情を抱き、大きな影響を受けることになる。大森は1951年(昭和26年)9月に亡くなるが、亡くなった大森に寄せたふみ子の挽歌はその内容が高く評価されている。翌10月には別居中の夫・中城博と正式に離婚となる。

    ふみ子は夫・中城博との別居前後から1954年8月に癌で亡くなる直前まで、様々な男性との浮名を流すようになる。ふみ子はその自らの生と性を歌に詠み込んでいった。一方で子どもたちに対しても深い愛情を注ぎ続け、子どもを詠んだ短歌もまた評価が高い。しかし短歌に情熱を注ぎ、地元北海道では名の通った歌人となり始めていたふみ子は乳がんにかかり、左乳房の切除手術を受けるがその後再発する。

    乳がんの再発後、ふみ子は死を覚悟した。ちょうどその頃、日本短歌社の「短歌研究」が読者詠の公募である五十首応募を実施した。乳がん治療のため札幌医科大学附属病院に入院することになったふみ子は、入院直後、五十首応募に投稿した。また迫りくる死を前にして自作歌集の出版を企図し、川端康成に自作集のノートと歌集序文の執筆依頼の手紙を送る。

    結局、五十首応募の特選を獲得した上に、ふみ子から送られた自作集のノートを高く評価した川端康成が角川書店に強く推薦したことにより、華々しい全国歌壇デビューを飾った。ふみ子の作品はこの当時の主流であった平明な日常詠の短歌からかけ離れたものであったため、既存歌壇から激しい反発と戸惑いを持って迎えられたが、その一方で若手歌人を中心とした熱狂的な支持の声が巻き起こった。そのような毀誉褒貶の最中、ふみ子は1954年8月3日に31歳の生涯を閉じる。

    激しい反発や戸惑いはやがて沈静化し、ふみ子の作品は広く受け入れられるようになる。そして前衛短歌の草分けのひとり、女流歌人興隆のきっかけを作ったと評価され、作品そのものも多くの歌人たちに多大な影響を与え、現代短歌の出発点であると言われるようになった。

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