神と仏(林史樹)

江戸幕府は徹底した宗教統制を行い、キリスト教を全面的に禁止し、すべての民衆を仏教寺院(檀那寺)の檀家となることを義務づける「寺檀制度(寺請制度)」をつくりました。さらに、幕府から寺院に戸籍権、教育権が与えられ、寺院は保護を受けることによって幕藩体制下に組み込まれ、封建身分制度を維持・補完する役割を担っていきます。教団内にも身分差別制度ができあがり、門徒は家の宗教を継ぐことが当たり前となり、僧侶は門徒が固定化したため、熱心に布教する必要性が低くなり、伝道によって平等の社会を実現していくという本来の念仏集団の機能を失っていきます。明治に入って政府は神社の氏子となることを義務づける氏子調べを開始しますが、寺檀制度が氏子制度に置き替えられただけで、強制的宗教政策という意味では内実は同じものでした。寺檀制度と氏子制度は廃止されましたが、現在も実態として生き続けています。氏子であることも真宗門徒であることも自分で選んだわけではなく、所属させられてきた、とも言えるのではないでしょうか。「神さまも仏さまも信じる」という姿勢もそのような歴史の中で引き継がれてきたのかもしれません。「今の門徒とお寺との関係は、義理としがらみとうわべだけのおつきあいです」と、ある門徒推進員は言いました。僧侶にとっては厳しい言葉ですが、現在の寺院と門徒の関係を見事に言い当てています。

2 thoughts on “神と仏(林史樹)

  1. shinichi Post author

    私は神さまも仏さまも信じていますが、それではいけないのですか。

    by 林史樹

    https://www.hongwanji.or.jp/jiin/doc/renken_q06.pdf

    「連研」で「神と仏」がテーマとなるとき、ともすれば法座の内容が、「神(神道)よりも仏(仏教)のほうが優れている」、「神を信じるのは仏教徒・真宗門徒として間違っている」という展開や結論になりがちです。「地域の氏神を否定するのか!」、「神棚を降ろせというのか!」という反発もそこから生まれます。まず前提として確認しておきたいのは、氏神や神社を否定すること、神棚を降ろすことがこの法座の目的ではないということです。「神と仏」の存在そのものを問うのではなく、「神と仏」に向き合う「私」を問うことがこの法座のねらいなのです。

    私たちの国には自分の宗教を選べない時代がありました。江戸幕府は徹底した宗教統制を行い、キリスト教を全面的に禁止し、すべての民衆を仏教寺院(檀那寺)の檀家となることを義務づける「寺檀制度(寺請制度)」をつくりました。さらに、幕府から寺院に戸籍権、教育権が与えられ、寺院は保護を受けることによって幕藩体制下に組み込まれ、封建身分制度を維持・補完する役割を担っていきます。教団内にも身分差別制度ができあがり、門徒は家の宗教を継ぐことが当たり前となり、僧侶は門徒が固定化したため、熱心に布教する必要性が低くなり、伝道によって平等の社会を実現していくという本来の念仏集団の機能を失っていきます。明治に入って政府は神社の氏子となることを義務づける氏子調べを開始しますが、寺檀制度が氏子制度に置き替えられただけで、強制的宗教政策という意味では内実は同じものでした。寺檀制度と氏子制度は廃止されましたが、現在も実態として生き続けています。氏子であることも真宗門徒であることも自分で選んだわけではなく、所属させられてきた、とも言えるのではないでしょうか。「神さまも仏さまも信じる」という姿勢もそのような歴史の中で引き継がれてきたのかもしれません。「今の門徒とお寺との関係は、義理としがらみとうわべだけのおつきあいです」と、ある門徒推進員は言いました。僧侶にとっては厳しい言葉ですが、現在の寺院と門徒の関係を見事に言い当てています。形式的な儀礼のみでつながってきた形骸化した寺院・僧侶と門徒の関係をとらえ直すことから始めなくてはなりません。

    さて、私が何かを「信じている」というとき、それは、何をどのように信じているのでしょう。信じることによって何を求めるのでしょう。以前、わが子に「父さんはあなたを信じているからね」と言ったら、「それは信じていないってことだね」と返され、何も言えなくなったことがあります。人は本当に信じて(信頼して)いるものに対して「信じています」とは言わないのです。不安や疑いの気持ちを「信じています」という言葉で打ち消そうとするのです。

    また、サブテーマに「お念仏をとなえると何かよいことがありますか」という問いが挙げられていますが、私にとって「よいこと」とは何でしょうか。「神頼み」という言葉があります(「仏頼み」と読み換えることもできます)。私の人生には自分の力ではどうしようもできないことがあります。生・老・病・死の苦の現実が、まさにその根本でありましょう。そこで神仏に祈願して、「無病息災」「交通安全」「商売繁盛」「合格祈願」などと自分の願いの実現を請い求めるのです。それは祈願という行為によって神仏と取引をし、見返りを期待する姿とも言えます。私の願いはどこまでいっても自分中心であり、自分の都合を満たそうとする欲なのかもしれません。その欲を満たすために神仏を利用し、いいときは「おかげさま」と喜び、悪いときには「神も仏もあるものか」と嘆きながら、あてにならない利益りやく(すくい)を求めて私たちは生きているのかもしれません。人間は不安を抱えた弱い存在だと自覚することは大切ですが、自分の弱さをごまかし、正当化してはいけないとも思うのです。

    「神さまも仏さまも信じている。両方を大切にしている」という気持ちは決して否定されるものではありません。ただし、そこでは何をどう大切にしているのかが問われます。両方を信じることはどちらも大切にしているようで、実はどちらも大切にしていないのではないかと考えてみることも重要です。「私は神さまも仏さまも信じていますが、それではいけないのですか」という問いは、私自身の「神と仏」への向き合い方を見つめなおし、浄土真宗を「家」の宗教から「私の宗教」として選びなおし、であいなおすきっかけとなるでしょう。「おつきあい」の宗教から脱却し、教えを「よりどころ」として生きる門徒、僧侶になっていくための問いでもあります。私はこれまで何を大切にしてきたのか。これから何を大切に生きていくのか。阿弥陀仏の浄土の真実を私の生活の中心に据えて生きるとはいかなることなのかを一緒に考えてみましょう。

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  2. shinichi Post author

    門徒推進員養成連続研修会(連研)

    12の問い

    問い1 私にとって幸せとは何でしょうか。 忍関 崇(北海道・日高・崇徳寺)
    和氣 秀剛(奈良・吉野西・圓光寺)
    問い2 葬儀や法事は何のためにするのですか。
    しなければいけないのですか。
    脇谷 暁融(北海道・十勝・妙覚寺)
    石﨑 博敍(大阪・天野南・大円寺)
    問い3 老いて亡くなることがわかっていても、
    受け入れられません。
    宮本 義宣(東京・神奈川・髙願寺)
    加藤 真悟(大阪・讃良・自然寺)
    問い4 他人からどう思われているのか、
    気になって仕方ありません。
    旭 勲(新潟・与板・常禪寺)
    宰務 清子(兵庫・加古川・金照寺)
    問い5 お浄土とは何ですか。 井上 慶永(新潟・巻・妙光寺)
    棚原 正智(兵庫・神姫・光輪寺)
    問い6 私は神さまも仏さまも信じていますが、
    それではいけないのですか。
    林 史樹(高岡・伏木・要願寺)
    苅屋 光影(備後・深津・光行寺)
    問い7 自分だけが幸せでよいのでしょうか。 城野 至界(高岡・伏木・善證寺)
    熊谷 正信(山口・岩国・西福寺)
    問い8 私は差別をしたことはありません。
    なぜ部落差別はなくならないのでしょうか。
    私は何をすればよいでしょうか。
    志摩田 真生(福岡・福岡・正法寺)
    巖后 範之(岐阜・華陽・願照寺)
    問い9 環境・格差・貧困などの社会問題は、
    宗教が入り込む問題ではないと思いますが。
    朝戸 臣統(岐阜・飛騨・神通寺)
    中川 一晃(福岡・御笠・願應寺)
    問い10 戦争をなくし、平和を築きあげるには
    どうしたらよいですか。
    漢見 覚恵(滋賀・彦根・純正寺)
    波多 唯明(佐賀・松浦・源光寺)
    問い11 この「連研」を通して、感じたこと気づいたこと、
    うれしかったことを話し合ってください。
    中川 大城(奈良・葛城北・無量寺)
    岩尾 秀紀(宮崎・高千穂・淨光寺)
    問い12 念仏者の生き方とはどのような生き方なのでしょうか。 楠 眞(岐阜・西濃南・縁覺寺)
    松野尾 慈音(東海・額田・明願寺)
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