爲末大 Dai Tamesue @daijapan

今回の大谷さんの話とは関係なく(いやないこともないですが)ですが、ふと思ったので。
一般的に、アスリートが有名になり始める年齢は18-24歳あたりで、そこで以下のようなことが起こります。

・先輩や昔の同級生が保険を売りにきたり、お金を貸して欲しいとお願いされる。
・いろんな人を紹介される。その中にグレーゾーンの人が混ざっていることもある。紹介する人は先輩だったりするのでややこしい。
・マネジメント事務所から連絡がある。
・会社を作る必要が出てきた場合、よくわからないまま株主の比率が決まる。

田舎で育った場合のアスリートは、昔と同じように素直に生きているといいように転がされてしまいます。
それで傷ついた人は今度は警戒心が強くなり、とにかく知っている数人だけで固めようとしますが、それはそれで身内と近くなりすぎて問題が起きたりします。

難しいのはそれが競技に集中している時であり、さらに20代の経験がない若い時にやってくる点です。相談しようにも、スポーツの中にそんな経験がある人も少ないです。言いにくいことも多い。

最近は少しマシになっていると思いますが、それでもやっぱりちらほら困っている話を聞き、なんとかできないだろうかと考えています。

3 thoughts on “爲末大 Dai Tamesue @daijapan

  1. shinichi Post author

    https://twitter.com/daijapan/status/1770944406662844907

    長文ファンの皆様おはようございます。

    さて、今日は大体的に会食は何のために存在するのかを考察してみたいと思います。

    「人間は動物である」と知っておくことは生きていく上で大変重要だと思います。動物的な特徴の一つに「仲間を優遇する」があります。
    社会の努力のうちの多くは「誰の仲間になるのか」に割かれています。大学もアルムナイという仲間組織がありますし、会社も同じ目的を持った仲間組織であり、地域社会も利害を一定共通する仲間でもあります。大きな仲間の中にも、小さな仲間グループがあります。

    どのグループの仲間になるかによって、人生の可能性が違うのは、誰もが実感するところだと思います。
    なぜそうなるのか。それは人の認知能力に限界があること。そして結局人は好き嫌いから逃れられないからです。
    人間は予測できないものより、予測できるものを好みます。安心だからです。仲間は大体お互いの情報を共有し合っており、行動や価値観で予測が効きます。要するに「何をしそうかわかる。何を考えているかわかる」ということです。これは人に大きな安心を与えます。

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    さらに人は結局好き嫌いから逃れられません。私の友人にはもう引退された方もいますが、人生の最後はやはり好きな人にしか合っていません。仕事でなければ人は嫌な人には会いたくないものです。
    ですが、好きな人をよく見てみると性格が合うことに加え「一定期間時間を過ごした」が入ってきます。つまり昔の部活の仲間、同郷は仲間は懐かしさもあり好きが生まれやすい。

    日本の組織から始まり、グローバルなコミュニティまで、突き詰めればこの仲間優遇の連鎖が続いています。むしろ、ベースが違う多国籍の繋がりほど、寝食を共にすることを重視しています。寮生活を中心に教育を考えているところすらあります。

    まとめると「動物的な行為を一緒に行い、時間を過ごせば過ごすほど人は仲間意識を感じ、お互いを優遇する傾向にある」
    となります。

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    最小単位の結婚すら「同じ知的水準、仲間が多いコミュニティ」で行われる傾向にあることがデータ上わかっています。

    ワークとライフを分けることはルール上とても大切ですが、しかし仕事上で会った人と結婚したり、プライベートで仲がいい人と仕事が始まり、昔の同僚と会社を辞めても家族付き合いをするのが人間です。

    ただ、日本社会は空気を読み合うことと、全員参加に慣れていることから、開催されると参加義務のように感じる問題があるのかと思いました。
    早々にその文化から離脱した人(私も!)はストレスはないですが、空気を自然と読んでしまう人にとってはストレスが大きいのだろうと思います。

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  2. shinichi Post author

    https://twitter.com/daijapan/status/1770216763327954983

    長文ファンの皆様おはようございます。

    私は散歩や、ドライブ、昔は全力疾走が好きでよくやっていたのですが、ふと
    「移動しながら見ること、静止して見ることの違いはなんだろうか」
    と気になったことがあります。
    人類が静止状態で(それでも完全な静止はあり得ず微妙に揺れていると思いますが)、ブラウザーなどで文字を読むのは、人類史からすると特殊な状況です。

    プルーストとイカの中でディスレクシア(失読症)患者の事例が挙げられていますが、人間が文字を読むためには、まず眼球運動の制御ができなければなりません。実は失読症では、この眼球の制御が難しい方がいます。
    本を読むのが苦手という方にも、おそらく単純に文字を読むための眼球を制御する力が鍛えられていないということがあり得ます。

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    進化の過程を振り返れば、移動する行為と見る行為はかなり密接に繋がっていたと考えられます。
    フランシスコヴァレリは、それらをエナクティブと呼び、まず移動があり知覚が創発されていると言いました。

    生物に視覚なり聴覚なり、外界を知覚する器官が生まれ、外界を把握しそこに対してアプローチするために行為が生まれたと考えるのではなく、まず移動があり、外界との接触により知覚が生まれ、その知覚が処理された、というのが私の理解です。
    つまり、世界が知覚され好奇心を持って世界にアプローチしたのではなく、世界に飛び込んだ結果知覚が誕生し世界が創発されたというわけです。

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    さらに知覚を豊かにするためには、外界との間に不規則な動きがあった方が望ましいと考えられます。私はそれが遊びが生まれた理由だと考えています。
    外界の近くを豊かにするために、言い換えれば「世界を身体で取り込むために遊びが必要とされた」です。
    私のスポーツの定義は「身体と環境の間で遊ぶこと」ですが、その間の創発こそが知覚であり、私たちにとっての世界が豊かになる瞬間なのではないかと考えています。

    ということで、視覚を優位に使いながら移動を行うパン食い競争を始めます。ぜひみなさんいらしてください。

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