山本七平

例えばここに一人の共産党幹部がいると仮定しよう。彼はもはや、内心ではマルクス=レーニン主義を信じておらず、共産主義革命が起こるとも起こそうとも思っていない。 
しかし彼自身は党の幹部として高給を貰い、住宅も保養施設も保証され、車も秘書もお手伝いも党から派遣され、更にマスコミには評論家としての活躍の場をもっている。もし彼が自己の内心の信に節を立て、もはや共産主義を信じず革命の必然も必要もないと宣言したら、彼はこの全てを失わねばならぬ。 
それは大変に苦痛であるだけでなく、自己の生涯と血の出るような苦難を無にすることになるから、彼にはそれができず、依然として共産主義者として振舞っている。簡単にいえば、こういった状態が対内的変節である。この状態は対外的には変節ではない。
彼がそのまま生涯を終えれば、一生、節を曲げなかった人ということになる。
対外的変節は、これと逆の生き方である。彼はマルクス=レーニン主義も革命も信じられなくなった。信じられなくなったが故に、そう言明して党を追われ、それまで享受していた一切を失った。その彼のところに、多くの人が共産党の内情について聞きにきた。そこで彼は、ありのまま正直に語った。ところが彼は、変節漢・裏切者として党およびそれに同調する者からあらゆる罵詈讒謗をあびせられ、一般社会も彼を「変節漢」と見なすようになり、社会的に葬られた。では、彼は果たして「変節」したのであろうか。 
少なくとも彼は、己れ自らをも他をも欺いておらず、自らにも他にも誠実だったという意味では、変節したとはいえないであろう。
変節とはその人の外面的な生き方からは判断できない問題だと一応は言える。

2 thoughts on “山本七平

  1. shinichi Post author

    ある雑誌で「変節」が問題になったことがあるが、多くの場合、「変節」という言葉で表現されている内容は甚だ曖昧だと思われる。そこで、その言葉の使い方から、一応これを「① 対内的変節」と「② 対外的変節」に分けて考えてみたいと思う。

    ① 例えばここに一人の共産党幹部がいると仮定しよう。彼はもはや、内心ではマルクス=レーニン主義を信じておらず、共産主義革命が起こるとも起こそうとも思っていない。 


    しかし彼自身は党の幹部として高給を貰い、住宅も保養施設も保証され、車も秘書もお手伝いも党から派遣され、更にマスコミには評論家としての活躍の場をもっている。もし彼が自己の内心の信に節を立て、もはや共産主義を信じず革命の必然も必要もないと宣言したら、彼はこの全てを失わねばならぬ。 


    それは大変に苦痛であるだけでなく、自己の生涯と血の出るような苦難を無にすることになるから、彼にはそれができず、依然として共産主義者として振舞っている。簡単にいえば、こういった状態が「対内的変節」である。この状態は対外的には変節ではない。 


    彼がそのまま生涯を終えれば、一生、節を曲げなかった人ということになる。こういう実例がカトリックにある。その司祭は、もはや神など信じていないのに「職業としての司祭」の役目をまことにソツなくこなしている自分を克明に日記に告発していた。 


    それが死後に発見されたが、これは恐らく西欧の伝統である「強迫観念としての懺悔」の結果であり、いつかはそれを人々に知らせないと安心できないという内的欲求があって、そこでこの対内的変節が明らかになったわけだが、そういう伝統のない国で、無言のまま息を引き取れば、その人は生涯「節」を曲げなかったということになるであろう。では、これは「変節」ではないのであろうか。私はそうは思わない。 


    ② の対外的変節は、これと逆の生き方である。彼はマルクス=レーニン主義も革命も信じられなくなった。信じられなくなったが故に、そう言明して党を追われ、それまで享受していた一切を失った。その彼のところに、多くの人が共産党の内情について聞きにきた。そこで彼は、ありのまま正直に語った。 


    ところが彼は、変節漢・裏切者として党およびそれに同調する者からあらゆる罵詈讒謗をあびせられ、一般社会も彼を「変節漢」と見なすようになり、社会的に葬られた。では、彼は果たして「変節」したのであろうか。 


    少なくとも彼は、己れ自らをも他をも欺いておらず、自らにも他にも誠実だったという意味では、変節したとはいえないであろう。私は、変節とはむしろ①の「対内的変節」を示す言葉だと思い、私自身が使う場合はこの意味だが、この変節はいわば「神のみぞ知り給う」ですぐには外部に表われないから、実際にはその言葉を使う機会がない。もっとも、社会一般には変節とされている②の対外的変節も、その人の内心の本当の動機はわからないから、この場合もまた何とも言えない。 


    というのは、それが真の思想的転向いわば一種の回心への自らの誠実が理由なら、これをとやかく言う権利はだれにもないからである。ある人が共産主義者になることも、またその人が共産主義者であるのをやめることも、本人の思想信条の自由であって、第三者が容喙すべきことではない。 


    だが、対外的変節がすべてこのケースかと問われれば、それもその人の内心の問題だから、これもまた「神のみぞ知る」であろう。以上のことを簡単に要約すれば、変節とはその人の外面的な生き方からは判断できない問題だと一応は言える。

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