福田利子

結婚前に恋人同士になる人たちがいても。精神的なもので、愛情が深ければ深いほど、男の人は、相手の女性の純潔を守ってあげる、というようなところがございました。こんな話を聞いたことがあるんですけど、ある男の人が美しい婚約者と音楽界に行き、音楽を聴いたり食事をしたりしているうちにすっかり気分が昂揚しました。でも結婚前のことですから、手ひとつ握ることができず、男の人は婚約者を家まで送り届けるなり吉原に行って、花魁に触れることによって、その熱気を冷ますことができたのだそうです。
まあこんなふうに、恋愛でさえ、心と身体が分離していた時代、と考えることができましょう。一般の女の人たちは、女として成熟していることよりも、純潔というか、処女性が尊ばれていたんですね。

2 thoughts on “福田利子

  1. shinichi Post author

    福田 利子
    大正9年東京生まれ。3歳のときに、吉原の引手茶屋「松葉屋」の養女となる。昭和13年、第一東京市立高等女学校を卒業後、養母の仕事を手伝いながら、茶屋の女将として仕込まれる。昭和26年、養母亡きあと、料亭「松葉屋」の女将を引き継ぐ。昭和33年の売春防止法施行後は、作家・久保田万太郎の支援を受け、花魁道中を復活。「はとバス」の夜のお江戸コースの中で、昔の吉原情緒を垣間見ることができた。松葉屋は平成10年惜しまれつつ廃業。平成17年、85歳で没。

    吉原はこんな所でございました ─ 廓の女たちの昭和史
    三歳で吉原「松葉屋」の養女になった少女の半生を通して語られる、「吉原」の移り変わりの記録。徳川時代、官許の遊郭として発祥した吉原は第二次大戦中、女たちが軍に徴発され、戦後は占領軍対策にあてられ、売春防止法によって、終焉を迎えた。家の貧困を身一つにひき受けて吉原に来た娘たち、廓で働く人びとの姿、廓の華やぎや情緒を、暖かい眼差しで写しとる。

    1章 吉原遊廓
        私の生いたち引手茶屋の跡取りとして ほか

    2章 私が松葉屋に来たころ
        女性の純潔が尊ばれた時代 昭和恐慌と吉原 ほか

    3章 戦時下に生きた吉原の女たち
        非常時のかけ声の中で 松葉屋の周辺 ほか

    4章 民主主義の時代と吉原
        進駐軍と慰安所 赤線の誕生 ほか

    5章 新しい時代に向かって
        赤線の中で松葉屋を続ける 「はとバス」コースにのる ほか

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