テリー伊藤

なぜ、あんなにがまん強い人を評価しないで、文句ばかり言っている人のほうを評価するのだろう。
それは、日本人が「わかりやすいもの」ばかりを求めるようになったからだ。親切に説明してくれるものは理解し、高く評価もするけれど、説明がないものを自分の想像力や努力で理解しようとしなくなっているのだ。
テレビをつければ、日本語なのに字幕を入れて説明してくれるし、朝刊を読む前に、アナウンサーが代わりに読んでくれる。主なニュースを選んで赤い線で囲んで見せて、ちゃんと読んでくれるのだ。
まさに完全介護、新聞も自分で読めない日本人は、いま、どんどん幼稚化が進んでいる。
食事は「コンビニのお弁当が、こんなに安くておいしくなった」と言って、もうそこで満足してしまう。
ファッションにしても、「Forever 21」や「H & M」に群がって、上から下まで5000円で揃うような洋服で喜んでいる。それはそれでいいし、低価格ブランドを否定するつもりはない。でも、それですべて満足してしまうようでは、ファッションの感性は少しも成長しない。
音楽も小説も映画も同じことが言える。このまま、説明的なエンターテイメントに飼いならされてしまったら、日本人は、ますます幼稚化してしまう。

2 thoughts on “テリー伊藤

  1. shinichi Post author

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    日本人が落合の凄さを評価できるほど、大人になっていない。

    いまの日本は、どんどん「子ども文化」になってしまったような気がする。

    食べものはコンビニ食とハンバーガー、洋服は20歳をとっくにすぎても10代にしか見えない服をファスオファッションで揃える。

    音楽やテレビや映画も、説明的でわかりやすいものばかりを求めていく。

    群れず、はしゃがず、黙って信念を貫いていく。

    媚びず、言い訳せず、不気味なほど寡黙に勝負して、勝つ。

    そこには、古き良き日本人が持っていたパワーがある。同時に、日本人がいまだかつて持ち得なかった新しい価値観がある。

    それを私は「落合力」と呼ぶ。

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    でも、落合監督はグッと堪えて黙っている。星野仙一監督のようにベンチを蹴飛ばすこともないし、マーティ・ブラウン監督のようにベースを放り投げることもない。

    それなのに、なぜ日本人は「落合監督はえらいなあ」と褒めないのだろう。なぜ、あんなにがまん強い人を評価しないで、文句ばかり言っている人のほうを評価するのだろう。

    それは、日本人が「わかりやすいもの」ばかりを求めるようになったからだ。親切に説明してくれるものは理解し、高く評価もするけれど、説明がないものを自分の想像力や努力で理解しようとしなくなっているのだ。

    テレビをつければ、日本語なのに字幕を入れて説明してくれるし、朝刊を読む前に、アナウンサーが代わりに読んでくれる。主なニュースを選んで赤い線で囲んで見せて、ちゃんと読んでくれるのだ。

    まさに完全介護、新聞も自分で読めない日本人は、いま、どんどん幼稚化が進んでいる。

    食事は「コンビニのお弁当が、こんなに安くておいしくなった」と言って、もうそこで満足してしまう。

    ファッションにしても、「Forever 21」や「H & M」に群がって、上から下まで5000円で揃うような洋服で喜んでいる。それはそれでいいし、低価格ブランドを否定するつもりはない。でも、それですべて満足してしまうようでは、ファッションの感性は少しも成長しない。

    音楽も小説も映画も同じことが言える。このまま、説明的なエンターテイメントに飼いならされてしまったら、日本人は、ますます幼稚化してしまう。

    説明過多に慣れすぎて幼稚化している日本人は、だからこそ、寡黙な落合監督に目を向けるべきなのだ。

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