森公乗輿 鸞輿盲女屡春遊 鬱鬱胸襟好慰愁 遮莫衆生之軽賤 愛看森也美風流 |
美しい車にのって 盲女しばしば春遊び 鬱したる気分にはいい 愁いが慰む どうでもいいよ 人々が下にみるとも わが愛し看る森よ はんなりしてるよ |
美人陰有水仙花香 楚台応望更応攀 半夜玉床愁夢顔 花綻一茎梅樹下 凌波仙子遶腰間 |
女体視るべし のぼるべし 夜半のベッド 人恋し気な顔がある 花はほころぶ一茎 梅樹の下に 水仙は腰の間をめぐるなり |
九月朔森侍者借紙衣村僧禦寒。 瀟洒可愛。作偈言之。 良霄風月乱心頭 何奈相思身上秋 秋霧朝雲独瀟洒 野僧紙袖也風流 |
ああええなあ むらむらするわ どないしよう 思い合うてる仲じゃけど なんとまあ おまえばかりが瀟洒じゃな わしの紙衣も 見栄えがしたわ あほらしくてこんな風に反訳するより仕方がない。良霄風月も、 秋霧朝雲も、つまりは森へのほめ言葉にすぎぬ。 |
一休
by 富士正晴
柳田聖山の訳:
美人陰有水仙花香 (美人の陰に水仙の花の香有り)
楚台応望更応攀 (楚王が遊んだ楼台を拝んで、今やそこに登ろうとするのは)
半夜玉床愁夢顔 (人の音せぬ夜の刻、夫婦のベッドの悲しい夢であった)
花綻一茎梅樹下 (たった一つだけ、梅の枝の夢がふくらんだかと思うと)
凌波仙子遶腰間 (波をさらえる仙女とよばれる、水仙の香が腰のあたりに溢れる)
一休、森女に溺る
by 禿羊
http://www.tcct.zaq.ne.jp/tokuyohsu/kanshi/702.html
一休さんといえば、良寛と並んで子供にまでよく知られている禅宗の僧侶ですが、一休の実際の人物像は大変複雑です。若いときの激しい修行の後、当時の悟りすましたような偽善的な禅宗の風潮に強く反発し、戒律を無視した風狂の生活を送ります。その詩偈は風狂の露悪的な表現、他人に対する悪罵に満ちており、常識人の我々にとってはいささか辟易とさせられるものがあります。
私は今回初めて一休の詩偈を、富士正晴が解説した本で読みました。竹林の仙人と称せられた彼もちょっと持て余している様子ですが、その飄々とした訳も面白いので、そのまま引用いたします。今回は、森侍者との愛欲の詩を紹介します。
77歳のとき、一休は住吉大社薬師堂で盲女、森(しん)の舞を見て見初めます。当時、森は一休より50歳以上若かったと言いますから、二十代だったのでしょう。一休は彼女を当時住んでいた、京田辺の酬恩庵にともない、以後88歳で死ぬまで同棲します。
「婬水」などという詩もありますが、なんと申しましょうか、ここまで赤裸々に書くかと感心します。禅坊主の露悪趣味は真似できまへんわ。しかし、お元気なのはうらやましいですな。そういえば、一休は蓮如上人と親交があったと伝えられています。この人も生涯で5人の妻に30人近い子供をつくりましたが、最後の二人は80歳を越えてからの子供です。相通ずるものがあったのでしょう。
森女
酬恩庵一休寺
http://www.ikkyuji.org/hitoyasumi/takiginosato_4.html
森女に一休さんが出会われたのは、一休さんが七十八歳の時でした。森女は三十歳前後であったでしょうか。森女は、住吉の薬師堂で鼓をうつ盲目の旅芸人だったといわれています。一休さんはそうした森女に同情して、一休寺へ迎え入れられたようです。晩年の一休さんとこの森女のことは、近年になって作家水上勉氏ほか多くの人たちにより、小説、エッセイ、戯曲などに取り上げられ、話題を呼びました。一休さんの詩集『狂雲集』では、森女への深い愛がうかがえられる詩が詠まれています。一休さんの人間味あふれる詩の内容は、現代の人たちにどう受け入れられるでしょうか。
狂雲集
一休宗純
松岡正剛の千夜千冊(927夜)
http://1000ya.isis.ne.jp/0927.html
一休が晩年に盲目の美女と同棲をしたらしいことは、広く知られていよう。水上勉の『一休』では、77歳から88歳までの10年間ほどを、一休は森女を愛し、森女もまた、一休に尽くして供養しつづけたということになっている。川端康成の最晩年を思わせる。水上勉は、一休が盲目の森女の膝を枕に、静かに死出の旅に招かれたていったと考えたようだった。
むろん実際のことはわからない。けれども『狂雲集』には「住吉薬師堂並びに叙」のあたり、ずらりと森女を詠みこんだ漢詩が並び、しかも森女との合体は、一休にとっては一休が考える仏門全域の本来の面目との合体だったようなのだ。
。。。
おそらく一休は森女にいっさいの菩薩を見たのであろう。一休が大悟しているのではなく、一休こそが森女によって導かれていることを知ったのである。
こういう一休は、もしや風狂の禅師とはよべないかもしれない。あまりに澄んでいる。しかし一休は、三生石で歌をうたっていた牛飼いのごとく、そのいっさいの本来を語ろうとはしなかったのだし、もし語るにしても、そこに必ずや一抹の「毒」や「悪」を入れることをしたわけだから、やはり、一休禅は「狂の禅」だったとも言える。