グローバル標準に近づく

常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の頃からなにも変わっていない日本という国家がある。国家が栄え、会社が栄え、国民や社員は国家や会社のために奴隷のよう生きる。

日本という国家は日本人のためにあるべきなのに、実際には日本人は日本という国家のためにいる。社員は会社のためにいる。日本人ひとりひとりが幸せになるのであれば、日本という国家などどうなってもいい。株主のためだけにある会社など、潰れたって構わない。

日本人が賢ければ、たとえ国家が滅びたとしても、国は残る。山河はもちろん、言葉も文化も残る。賢くないから国家だけが栄え、山河も言葉も文化も荒廃してしまう。ひとりひとりがまともなら、会社がなにをしようともみんな幸せに暮らすことができる。まともでないから過労で死ぬ。

全体主義のなかでは人は無知だ。誰も世界の潮流を知らない。知ろうともしない。死刑廃止も男女同権も世界の潮流なのに、それを認めようともしない。グローバル・スタンダードをアメリカン・スタンダードと勘違いし、アメリカの猿真似だけをする。

世界のどこかで事故が起これば日本人の安否だけを気遣い、ワールド・カップでは日本の試合だけに一喜一憂する。世界中の人たちがなにを見ているのか、なにを考えているのか、そんなことにはお構いなしに、日本のことだけを気にする

日本人とか、どこそこの社員とか言う前に、地球上のひとりの人間、世界の一員だって、思えないのだろうか。日本の学校だけが学ぶところではないし、日本の会社だけが働く場所ではない。日本から出ていけば、きっと、もっと幸せになれる。

今、日本で起きていることは、不況なんかではない。グローバリゼーションのなかで、日本は普通の国になり、経済も他の国並みになっていく。その過程が不況に見えるだけなのだ。もっと言ってしまえば、日本が世界で第2位になる必然性など、初めからなかったのだ。

グローバリゼーションなかでは、特に優れているわけでもない日本人が、特に劣っているわけでもない他の国の人たちより、より良い暮らしをするというわけにはいかない。日本での競争から、世界での競争になった時、いったいどれだけの日本人が良い暮らしを保っていけるのだろう。

グローバル・スタンダードを知り、それに近づく努力をしたものだけが、グローバリゼーションのなかでもやっていける。そういうことを切実に考え、現実を受け入れるべきなのだ。滅びの美学に酔い、自ら進んで落ちこぼれていく必要など、どこにもない。

明治維新の時に「藩のためでなく、日本のため」と言った人たちが今生きていれば、きっと「日本のためでなく、世界のため」と言うに違いない。会社のことだけを考えていれば、儲けのことしか考えられない。日本の危機だけを見ていれは、地球の危機は見えてこない。

グローバリゼーションには反対だとか、グローバル・スタンダードに近づくのがチャンスにつながるとか、みんないろいろなことを言う。でも現実は避けて通れない。グローバリゼーションはそこにある。グローバル・スタンダードに近づかなければ置いていかれてしまう。

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