池田清彦

科学はもともと、科学という方法によって説明できることしか説明できないし、世界には科学で説明できないことの方がむしろ多いのである。たかだか人の脳が理解できる範囲のやり方でもって、自然を全部説明しようというのは、そもそも無理なのである。人の脳は自然の一部である。一部で全体を説明するやり方に無理が生ずるのは、考えてみれば当たり前ではないか。

科学はもともと、くり返し観察される何らかの共通現象しか説明できないのである。個々人の生きる意味といった個別的な点に関しては科学は全く無力である。

自然現象の大半は、一回性のものであり、科学がコントロールできるものでも手におえるものでもないのだ。コントロール可能な世界にだけ住んでいると、時に人はそのことを忘れる。ふだん、それを忘れている人は、ある時自分の「心」と「体」がコントロールできないことを知って、あわてるのである。でも、自然のほとんどは、科学の説明の埒外にあるのである。

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One Response to 池田清彦

  1. shinichi says:

    科学とオカルト: 際限なき「コントロール願望」のゆくえ

    by 池田清彦

    科学を悪く言う人の中には、科学ではすべてを説明できないので、それにかわるべきもっと高次の原理を考えるべきだ、と言う人もいるが、基本的にそれはお門違いだと私は思う。こういう人はゴリゴリの決定論者と同じ間違いを犯しているのである。科学はもともと、科学という方法によって説明できることしか説明できないし、世界には科学で説明できないことの方がむしろ多いのである。たかだか人の脳が理解できる範囲のやり方(科学もまたそういうものの一つである)でもって、自然を全部説明しようというのは、そもそも無理なのである。人の脳は自然の一部である。一部で全体を説明するやり方に無理が生ずるのは、考えてみれば当たり前ではないか。

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    科学はもともと、くり返し観察される何らかの共通現象しか説明できないのである。個々人の生きる意味といった個別的な点に関しては科学は全く無力である。だからといって、それは科学のせいではない。株式市場が生きる意味を教えてくれないからといって、株式市場に文句を言う人はいない。

    科学だけが、ことさらに、科学は人生の意味を説明できないなどと言われるということは、多くの人々が心のどこかで、科学と同型の思考法をとっているためかも知れない。

    その思考法は恐らく、この世界はコントロール可能というものだ。科学はくり返す現象に対しては「事物の相対的に安定な仕組み」を見つけ出し、その限りにおいて予測を可能にするだろう。仕組みがわかって、それを人工的に操作することができれば、人間にとって都合の悪い予測は、場合によっては変更することができるだろう。

    現代の我々は、ほとんどそういう世界に住んでいる。予測不能な自然、わけのわからぬ自然は、なるべく生活から追い出して、わけのわかる内部でだけ生活しようとしている。都会とはそもそもそういう所であろう。電気やガスや水道が止まれば一大事である。電話一本かければ、すぐに修理の人がとんでくる。修理不能であれば、部品を換えればよい。ガスが永久に出なくなるなんてことは考えられもしない。そういう前提で住んでいるのである。

    しかし、自然現象の大半は、一回性のものであり、科学がコントロールできるものでも手におえるものでもないのだ。コントロール可能な世界にだけ住んでいると、時に人はそのことを忘れる。ふだん、それを忘れている人は、ある時自分の「心」と「体」がコントロールできないことを知って、あわてるのである。でも、自然のほとんどは、科学の説明の埒外にあるのである。

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