One thought on “竹内栖鳳、岡田みどり

  1. shinichi Post author

    岡田みどりは、東京で荻原守衛のモデルをつとめていたが、碌山は急死。その後、松岡映丘のモデルをつとめていたが、映丘があまりにもみどりにのめりこみ、みどりは東京美術学校へ出入りを禁止される。そんな時、竹内栖鳳がモデルの依頼をしたため、みどりは東京を離れ、京都にやってきた。

    この時期、栖鳳は京都の東本願寺からの依頼で、山門の天井画に天女を描こうとしていた。のびのびとした肢体で自由に天界を舞う天女像は、みどりのイメージそのものだったのだろう。東本願寺には、みどりをモデルにデッサンした素描の『天女』像が残っている。

    1913年(大正2年)には栖鳳の代表作となる『絵になる最初』のモデルもつとめている。この作品は、同年の第7回文展に出品されて多くの注目を集めた。

    やがて、京都の水が合わなかったのか、みどりは身体をこわして東京にもどる決心をする。栖鳳の仕事は遅々として進まず、東本願寺の天井画は未完成のままだった。お気に入りのモデル「みどりさん」に、できるだけ長く京都にいてもらいたいため、竹内が意図的に筆の進みを抑えていたとも言われている。

    東京に着いてからわずか2日後にみどりは急死してしまう。みどりの死に際して、多くの見舞金が寄せられているところをみると、いまだ画家たちの人気は衰えていなかったようだ。栖鳳からも多大な見舞金が届けられ、話題を呼んだ。死の床のみどりの指には、東本願寺の句佛法主から贈られたダイヤモンドの指輪が光っていた。

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