西垣通

現代は情報社会であり、ビッグデータがトピックスになっていますが、情報という概念はとうていキチンと位置づけられてはおりません。たとえば情報洪水と言われますが、あふれているのは機械的な「記号」でしょうか、それとも「意味内容」なのでしょうか。情報量は俳句と映画でどちらが多いのでしょうか。機械的な情報量としては動画のほうがはるかに多くても、名句から忘れがたい影響力を受けることもあります。そうなると混乱してくる。情報学環の優秀な学生さんに、情報、メディア、コミュニケーションという三つの概念の定義は何か、三者の関係は何かと質問すると、きちんと回答が返ってきません。基礎概念がぐらついていては、学問的体系など構築できないのです。

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  1. shinichi Post author

    西垣通 東京大学最終講義録

    http://todai.tv/contents-list/events/nishigaki/lecture/9tizet

    本稿は、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授であった西垣通の最終講義の記録である。この講義は、同教授の 2013 年 3 月末の定年退任にともない、同年 3 月 6 日に東京大学福武ラーニングシアターにておこなわれた。内容はおもに情報学環の教職員や学生に向けたものであるが、一般にも公開された。わかりやすくするため、本講義録では当日話した内容を多少補ったり言いかえたりしている部分もある。

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    とりわけ、情報の「意味」という存在が難問でした。現代は情報社会であり、ビッグデータがトピックスになっていますが、情報という概念はとうていキチンと位置づけられてはおりません。たとえば情報洪水と言われますが、あふれているのは機械的な「記号」でしょうか、それとも「意味内容」なのでしょうか。情報量は俳句と映画でどちらが多いのでしょうか。機械的な情報量としては動画のほうがはるかに多くても、名句から忘れがたい影響力を受けることもあります。そうなると混乱してくる。情報学環の優秀な学生さんに、情報、メディア、コミュニケーションという三つの概念の定義は何か、三者の関係は何かと質問すると、きちんと回答が返ってきません。基礎概念がぐらついていては、学問的体系など構築できないのです。

    といっても問題は大きいので、まず、私が一番よく知っているコンピュータという存在を根本からとらえ直そうと考えました。コンピュータというのは、単なる高速計算機ではないのではないでしょうか。そこにはもっと深い歴史的文脈や文明論的意義があり、そこから出発しないと、情報と人間の関係をただしく把握できないのではないでしょうか。

    結論として、私がたどりついたのは、コンピュータとは、普遍的な論理操作を実現する機械だということです。ルーツにあるのは一神教的な普遍主義です。つまり、全宇宙をつかさどる神聖で普遍的な真理があり、その真理は論理操作によって導出できる、という信念なのです。これは、ヘレニズム(ギリシア)の論理とヘブライズム(ユダヤ)の統一的宇宙観の合体とも言えますが、とくに後者が注目されます。そこにはユダヤ人たちのたどった悲劇的な運命が関わっているからです。

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    そもそも「情報」とはいったい何でしょうか。情報の定義はたくさんありますが、学問的な定義の代表として、とりあえず二つあげられます。第一は、理系の概念で、通信工学者のクロード・シャノンらが考えたものです。平たく言えばこれは、情報を「ものごとを秩序づけるもの」とみなす定義です。「ネゲントロピー(負のエントロピー)」と関連づけられることもあります。エントロピーとは本来熱力学の概念ですが、統計力学的には対象系の無秩序性の度合いをあらわす量のことです。気体の分子運動が秩序を失いランダムになると温度はあがり、孤立した系のエントロピーは時間とともに増大していきます。力学におけるこの考え方を通信工学に流用して、情報とは対象系の秩序化を進める存在だというとらえ方が出現したのです。

    たとえば、野球の好敵手である A チームと B チームの試合が昨日あったとします。その結果を私が知らないとすると、どちらが勝ったかという確率はともに 1/2 です。試合を見に行った友人が結果を私に教えてくれると、その時点で、どちらかのチームが勝利したという確率が 1 で確定します。情報を得たことによって、確率構造が変化して秩序が生まれたというわけです。そして、伝わった情報の量も、確率構造の変化から計算できることになります。ここで前提となるのは、客観的な世界が存在し、その状況を測定して伝えることが情報であるといった考え方です。そして測定結果は、あたかも神様が世界を客観的に上から眺めているような普遍性を持っているのです。つまり、シャノン流の情報とは客観世界と確率概念にもとづくものであると言えるでしょう。

    第二は、どちらかと言えば文系の情報概念で、文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンが提唱したものです。この人物は前述のマーガレット・ミードの旦那さんですね。よく知られているように、ベイトソンの定義は「差異をつくる差異(a difference which makes a difference)」というものです。ここで出現するのは、世界を認知する生きた主体に他なりません。生きた主体が、世界を分節化し、差異(パターン)のネットワークとして構成していくのです。だから、ここでいう世界とは客観世界ではなく、生きた主体にとっての主観世界です。主観世界は生きた主体にとって特有の「意味(価値)」をもつものですが、その「意味」は所与のものではなく、主体が身体をベースに生きていく過程で出現するのです。つまり、主体にとって「意味」のあるものが、循環的にまた「意味」を形成していくことになります。したがって、情報とは、認知主体の主観世界における生成概念にもとづくことになります。

    このように二つの情報の定義は非常に異なっています。では日常用語では、情報はどういう概念とされているでしょうか。広辞苑には二つの定義が書いてあります。第一は「あることがらについてのしらせ」です。これは不明なことを教えてくれるもの、といったニュアンスですから、シャノン流の情報概念に近いでしょう。第二は「判断を下したり行動を起こしたりするために必要な(種々の媒体を介しての)知識」です。これは主体の行動をうながすもの、といったニュアンスですから、ベイトソンの情報概念に近いという気がします。

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    文理融合の学際情報学における情報概念はどんなものになるでしょうか。とりあえず、情報工学などの理系分野では意味を括弧にいれて記号の形式的・機械的な処理をおこなうのでシャノン流の定義、メディア論などの文系分野では人間社会の意味をあつかうのでベイトソン流の定義という使い分けをすることもできます。しかしそれでは、生物学における DNA 遺伝情報はどちらになるでしょうか。

    これは意見がわかれるところです。普通の一般人は DNA 遺伝情報を機械的に処理してタンパク質ができると信じているので前者と答えるのですが、専門家の分子生物学者は後者と答える人が少なくありません。DNA 遺伝情報の処理は非常に複雑で個別性も高く、塩基配列の意味解釈をおこなっているようなところもあるので、後者に近いというわけです。となると困ってしまいます。

    ここでサイバネティクスを思いださざるをえません。なぜならウィーナーが書いた著書『サイバネティクス』の副題は「動物と機械における制御と通信」だからです。生命体と機械の情報処理を統一的にあつかうのがサイバネティクスとすれば、そこにヒントが隠れているはずです。

    強調しなくてはならないのは、「意味」とは誰にとっても共通のものではない、という点です。犬や猫にとっての世界は、人間にとっての世界とは異なるでしょう。この点は生物学者フォン・ユクスキュルが指摘したとおりです。また、人間といっても、各個人ごとに厳密には世界の意味や価値付けは異なります。たとえば、ここにワインが何本かあるとしましょう。私は下戸なので、どのワインの味も同じように感じられます。でもワインのソムリエなら、全然ちがうと言うはずです。辞書に出てくる言語記号の意味はあたかも共通のように見えますが、これは二次的に派生した意味であって、根源的には、生命体にとっての意味は主観的・個別的なものなのです。

    要するに、生きることが「意味(価値)」をつくるのですね。シャノン流の情報概念は普遍的な客観世界を前提としているので、そこでは適用できません。あくまで意味を捨象した、記号同士の関係性の分析に用いるべきなのです。

    ところが、ウィーナーが 20 世紀半ばに提唱した古典的なサイバネティクスでは、この点が曖昧にされていました。端的に言うと、生命体をまるで機械のように見なしていたといっても過言ではありません。それは生命体を外側から客観的に眺めているからです。たとえば、猫に電気刺激をあたえると、四肢が反応して痙攣します。このとき、電気刺激が入力、四肢の痙攣が出力というわけです。このモデルは、いわゆる「開放系モデル」で、対象である猫を外側から客観的に観察して入出力関係を分析するのです。

    しかし、真に生命体を研究するには、生命体の内側に入りこんで、生命体にとって主観的な世界がどう立ち現れるかを分析しなくてはなりません。つまり、生命体を内側から眺めるのです。このとき、入力も出力もありませんから、いわゆる「閉鎖系モデル」となります。実際、私は私の世界に閉じ込められており、そこから外には出られません。皆さん一人一人も同じことです。皆さんは、皆さんの脳に私の話を機械的に入力しているのではなく、個別のやり方で私の話を解釈しておられるわけです。こういう面を考慮しなければ、情報概念を十分に正しくとらえることはできないのです。

    以上のように、分析の視点をコペルニクス的に転換したのが、20 世紀後半に産声をあげた「ネオ・サイバネティクス」という新しい学問でした。そこでは閉鎖系が前提とされます。具体的には、1970 年代に物理学者ハインツ・フォン・フェルスターによって提唱された「二次サイバネティクス」、同じ頃に生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラによって提唱された「オートポイエーシス理論」、少し遅れて 1980 年代に社会学者ニクラス・ルーマンによって構築された「機能的分化社会理論」、認知心理学者エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドらによる「ラディカル構成主義認知心理学」、文学者ジークフリート・シュミットらによる「文学システム論」などを、まとめてネオ・サイバネティクスと呼ぶことができます。そして、私が 10 年ほど前から提唱している「基礎情報学」も、ネオ・サイバネティクスの一環と位置づけられるのです。

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    基礎情報学(Fundamental Informatics)は、神様のつくった客観世界を天下りの前提とはしません。科学者は通常、客観世界があると仮定して議論しますが、考えてみると一体そんなものがどこにあるのでしょうか。たとえあったとしても、誰がそれを正しく把握できるのでしょうか。われわれが認知できるのは個々の主観世界だけなのです。天文学などではそう仮定してもあまり間違いはないのでしょうが、心理現象や社会現象については、簡単に客観世界を前提にはできないはずです。

    ですから、基礎情報学では、まず個々のクオリア(感覚質)から織り上げられる主観世界から出発します。人間にとってのクオリアは、身体が感じる痛みや情動をベースにしたものです。こういう部分を無視して情報社会を構築すると、人間は機械的存在とみなされ、日常生活もコンピュータに振り回されることになってしまいます。

    子供がその成長過程で、客観世界を認知していくのではなく、環境に適応するように主観的に世界を構築していくことは、発達心理学者ジャン・ピアジェの後継者であるフォン・グレーザーズフェルドもくり返し強調しています。つまり、疑似的な客観世界を仮定できるとしても、まずは主観世界から出発しなくてはいけないのです。

    ここで一つ疑問が生じます。いったい、主観世界はいかにして出現したのでしょうか。コンピュータのような機械は、主観世界をもつことはできないのでしょうか。その回答は明確にあたえられます。「自分で自分を創る存在」が、主観世界を構成するのです。「他者によって創られる存在」は、本来、主観世界を構成することはできません。あくまで過去の自分にもとづいて、自律的に、現在の(そして未来の)自分を自己循環的に創っていく存在が、結果的に主観世界を創出させるのです。

    マトゥラーナとヴァレラは、生命体をそういう存在としてとらえ、これを「オートポイエティック・システム(自己創出システム)」と命名しました。オート(auto)とは「自分」、ポイエーシス(poiesis)とは「制作」のことです。生命体とは、自分で自分を創りあげる存在なのです。オートポイエーシス理論は、科学哲学者の河本英夫さんによって、1990 年代はじめに日本に紹介されました。基礎情報学は、このオートポイエーシス理論をベースにしています。

    生命体が自律的・自己循環的な存在であることは、直感的にも明らかでしょう。細胞は自分の DNA 遺伝情報にもとづいて、自分と同じ細胞を創りあげます。生物集団に注目すると、集団内部で生殖活動をしながら自分の集団を存続させているとも言えます。心のなかでも、思考がぐるぐる回っています。だからこれらを、入力も出力もなく、内部と外部の境界もない閉鎖系とみなすことができるのです。

    とはいえ、ここで大きな問題が生じました。情報の意味は生命体の内部で発生するにしても、同時に、情報とは生命体同士のあいだで「伝達」されるもののはずです。もし生命体が閉鎖系であるなら、伝達は原理的に不可能となってしまいます。実際、マトゥラーナやヴァレラの議論では、情報伝達という概念はことごとく排除されているのです。しかし、情報伝達という概念を完全に否定すれば、日常生活における「情報」という用語は根拠をうしない、学際情報学そのものが危うくなってしまいます。実際、われわれは他人と会話していてしばしば誤解や意思疎通の難しさに悩まされますが、それなりに「何か」を伝え合いつつ日常生活をおくっていることも確かなのです。疑似的にせよ、意味が伝達されているというのはそういう事態を指しているのです。

    こうして、「閉じていれば伝わらない」という矛盾を乗りこえ、オートポイエーシス理論の枠組みを尊重しつつ情報概念を構築していくということが、基礎情報学の最大の課題として現れてきました。つまり、閉鎖系を前提にしつつ、情報伝達をモデル化するということです。このことは、言いかえれば、主観世界から出発しながら疑似客観世界に迫るということです。粗っぽくいえば、情報概念をもちいて主観世界と客観世界をむすぶことと言ってもよいかもしれません。この点に、基礎情報学のエッセンスがあるのです。

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    考えてみると、自分の言葉の意味が相手に完全にそっくり伝達されることは決してありえません。しかし、たとえば私が何らかの会議で発言し、その真意が伝わったかどうかは不明でも、相手がそれに応じて何らかの行動をおこし、とくに不都合が生じなければそれでいいわけです。つまり、自分の心のなかの思考と相手の心のなかの思考というレベルでは、お互いに閉じているとしても、会議におけるコミュニケーションとこれによる行動という上位のレベルで合意が形成されれば、疑似的にせよ、あるレベルで情報が伝達されたと見なすことができます。基礎情報学では、こういう階層関係にもとづいてモデルを構築します。

    通常、オートポイエーシス理論では、階層関係を認めません。オートポイエティック・システム同士は相互浸透といって対称的な影響関係にあると考えるのです。しかし、基礎情報学では対称的な関係だけでなく、非対称な関係をも認めるのです。こういうオートポイエティック・システムを、とくに「階層的自律コミュニケーション・システムHACS(Hierarchical Autonomous Communication System)」と呼ぶことにします。手短に言えば、基礎情報学は HACS モデルを用いて情報現象を分析する学問なのです。細胞、心、社会組織などだけでなく、一般に複雑な生命体や生命組織は皆、HACS としてモデル化されることになります。

    HACS モデルにおける構成素は「コミュニケーション」です。いかなる HACS においても、コミュニケーションがコミュニケーションを生み出すという循環作動が繰り返されるのですが、そこに階層的な関係が成立しています。つまり上位 HACS から見ると、下位HACS は非自律的(非オートポイエティック)な存在、つまり開放系として機能しているのです。閉鎖性や開放性は視点とともに出現することに注意してください。

    典型例としては、会社の社員の心という HACS の上位に会社という組織の HACS が位置づけられるのですが、それだけでなく、いまこうして最終講義を聴いてくださっている皆さんの心、そして講義をしている私の心という HACS の上位に、この場の社会的なコミュニケーション・システムという HACS があると考えることができます。突発事件でも起きてこの講義が中断されないかぎり、この場で社会的なコミュニケーションは継続発生していくわけで、それが上位 HACS の作動に他なりません。そこでは、私はスピーキングマシン、皆さんはリスニングマシンのような、開放系としての機能を果たしていると見なすこともできます。しかし一方、講義の最中に私も皆さんも心のなかで自由に思考することはできるわけで、そのレベルでは閉鎖系なのに変わりはありません。

    こういう階層は、生命体やその組織のいたるところに見られます。たとえば、私から見ると、私の胃のなかの細胞は、消化という決まった機能をまるで機械のように果たしています。けれども、細胞自体から見ると、自律的に作動しているだけなのです。だから下手をすると妙な作動をして、癌細胞になってしまうこともあるわけです。これは、すべてが設計者の視点から他律的に作られ、統一的に作動しているコンピュータ・システムとは本質的に違う点ですね。

    HACS モデルで表されるこの生命的階層性は、科学哲学者マイケル・ポラニーのいう暗黙知と少し類似しているとも言えるでしょう。暗黙知(tacit knowledge)は、自転車にのる技能のような、明示的に表現できない無意識の身体知として知られています。けれども、もっと詳しく言うとこの理論は、われわれが認知活動をおこなうとき、あるレベルに着目すると、もっと下位のレベルは潜在化して見えなくなってしまうという認知のメカニズムを指しているのです。たとえば、誰かの顔全体を認知するとき、目や鼻、口などの諸細目は意識から外れてしまうのですが、決して完全に忘れられるのではなく、それら諸細目の認知により潜在的に支えられて顔全体を認知することができるのです。同じように、私の胃の細胞群は一生懸命に消化活動をしていて、そのお陰で私は思考活動もできるのですが、食中毒にでもならないかぎりあまり意識にのぼることはありません。

    いずれにしても、大切なのは HACS における「コミュニケーション」の継続発生です。コミュニケーションとは出来事ですね。一方、これを社会的制度によってトップダウンで支えるのが「メディア」であり、物質的パターンをともなってボトムアップで支えるのが「情報」である、という整理もできるでしょう。こういう概念枠組みで、有機的に学際情報学をとらえ直すことができると思います。

    一言お断りしておくと、基礎情報学を一通り講義するには一年くらいかかるので、この最終講義ではほんの入り口しか述べられません。何冊かテキストを出版しましたので、興味のある方はどうかお読みになってください。また、この春には入門テキストの英語版をウェブで無料公開する予定です。私が書いた易しい英語ですから、皆さんにとって読んでいただくご苦労はそれほど無いでしょう。そうすれば、HACS モデルによる疑似的な情報伝達について、より深く分かっていただけると思います。

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