加藤竹彦

古川古松軒の『西遊雑記』では、一対一の約束を武蔵之助が破って門人数人を連れて舟島に渡ったのを見た浦人たちが「岸龍」をとどめたが、「武士が約束を破るは恥辱」とこれに一人で挑む。しかし武蔵には4人の門人が加勢していて、ついに岩龍は討たれてしまう。浦人たちは岩龍の義心に感じてこの舟島に墓を作り冥福を祈り、それ以来ここを「岩龍島」と呼ぶようになった、とある。

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  1. shinichi Post author

    悲劇のヒーローか、「巌流島の決闘」
    主幹研究員 加藤 竹彦
    https://www.i-ise.com/jp/column/kyuukonu/2014/08.html

    宮本武蔵が佐々木小次郎を打ち破った「巌流島の決闘」は、1612年(慶長17年)5月13日、山口県下関の「舟島」にて行われた。

    定刻通りに参着した小次郎は、緋色の陣羽織に染革の裁付(たっつけ)袴の姿、果し合いの正装ともいえる出立ちである。細川氏筆頭家老の長岡興長らと床几に腰かけ、宿敵武蔵の遅い到着に焦れていた。そして午前9時過ぎ、小舟に乗ってやってきた武蔵は洲崎に舟を止め、被っていた綿入れを脱ぎ、手拭いを取り出して鉢巻にする。

    「待ちかねたぞ、武蔵」と一声ののち、小次郎は刃渡り三尺(90センチ)の野太刀「備前長船長光」、通称「物干竿」を威勢よく抜刀、鞘を捨てる。それを見た武蔵が「小次郎負たり、勝は何ぞその鞘を捨んと」と返す。

    両者はじりじりと間合いを詰め、小次郎の物干竿が武蔵に届かんとする刹那、「燕返し」の必殺技、一心一刀(一度大きく振りかぶり、相手にわざとはずさせたところを下から切り上げる)をかけるも、陽光で目がくらみ、やや刃先が鈍るのを武蔵は逃さず、すっと身を引くと一閃、鉢巻だけがはらりと落ちる。そのまま武蔵は一気に相手の懐に飛び込むや、櫂を削った二尺五寸の木刀が小次郎の脳天を直撃、ひるんだ隙をさらに一尺八寸の木刀が肋骨を打ち砕き、とどめを刺した。

    あわれ、小次郎はその短くはかない生涯を閉じた、というのが一般的なストーリーイメージであろうか。しかし実際にはこれとは違う決闘の様子が繰り広げられていたかもしれない。

    決闘時の小次郎は60歳を超えており、一方の武蔵は20代であった。武蔵の養子で決闘に立ち会った目撃者である宮本伊織が、武蔵の死後9年目に建立した小倉の顕彰碑「小倉碑文」によると、「両雄同時に相会し」とあり、武蔵は遅刻していない。

    なぜ佐々木小次郎といわれるのか。「小倉碑文」には小次郎の名は「岩流」としか記されていない。宝暦5年(1755年)に肥後細川藩の筆頭家老・松井家の二天一流兵法師範の豊田正脩が著した武蔵の伝記「武公伝」には小次郎とあるのみである。佐々木姓は歌舞伎の『敵討巖流島』に登場する「佐々木巖流」から名を採ったものであろうと、魚住孝至は『宮本武蔵』で推察している。

    また古川古松軒の『西遊雑記』では、一対一の約束を武蔵之助が破って門人数人を連れて舟島に渡ったのを見た浦人たちが「岸龍」をとどめたが、「武士が約束を破るは恥辱」とこれに一人で挑む。しかし武蔵には4人の門人が加勢していて、ついに岩龍は討たれてしまう。浦人たちは岩龍の義心に感じてこの舟島に墓を作り冥福を祈り、それ以来ここを「岩龍島」と呼ぶようになった、とある。

    さらに、決闘の60年後に豊前国の細川家小倉藩家老、門司城代の沼田延元の家人が1672年に記した文書『沼田家記』では、決闘で武蔵は小次郎を殺すに及ばず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返し、その後武蔵の弟子らに殺されたとある。

    やはり吉川英治の「宮本武蔵」のほうがかっこいいか。

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