福島香織

  • 新聞記者は、もともと疑うのが仕事。一見単純に見える自称に複雑な裏があるんじゃないか、とか、立派そうな人にスキャンダルがあるんじゃないか、とか。でも、一番疑うべきは自分の正義感だと、記者歴20年目くらいからわかってくる。
  • 記者が正義にこだわるのは、事実を報じることが必ずしもも社会にポジティブな影響を与えるわけではないからだ。というより、ネガティヴな影響の方が多い。あと誰かしら傷つけるものでもある。その罪悪感を薄めるために、いろいろ自分が正義であるかのような言い訳をしてしまう。若いころは特に。
  • 少数マスメディアが社会の木鐸を名乗って世論誘導する時代から、ネットの個人メディアを含め多様なメディアが多様な事実、見方を提示して、それを社会の薬とするか、毒とするかは情報の受け手に委ねられる時代となったのだと思う。
  • 大手メディアが政権に対するチェック機能を名乗る時代から、情報の受け手がsnsなどで発信するこえが世論を形成して、政権や、メディアの正しさを疑う時代になったのだと思う。
  • 報じられた事実を社会の毒とするか薬とするかは、受けて側にある、と言うと、メディアの無責任と言われるのが日本だが。香港とかのメディア研究者の考え方は、メディアの責任は事実を報じるという一点に止まり、その社会的反応まで責任を負わされると、事実を隠蔽、自粛する面が出てくる。
  • 自分の中に絶対正義を作ってしまうと、どうしても恣意的報道に陥る。恣意的報道はメディアの多様性の中である程度の補正がかかるのでまあいいとして、情報の隠蔽の言い訳にしてしまうことがある。
  • 社会が未成熟な時代、メディアは知識人の集合体で、無知もうまいな大衆を教え導く存在を自負していた。暴走する世論を正しく教え導く立場。社会の木鐸を名乗るのはそう言う意識が元になっている。だかネットといもののおかげで、受け手もそれなりの集合知となっている。

One thought on “福島香織

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *