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(お経は誰のために読むのですか? 亡くなった方を成仏させるため?)
本来は、釈尊の言葉を正確に伝えるためでした。経典の文字に拘泥して、本当に言いたかったことが曲解されるのを心配した釈尊が、自身の言葉を文字として残すことを禁じたためです。この口伝によって、修行僧は釈尊の伝えたかったことを学んでいったのです。しかし、口伝しているうちに前後の脈絡がなくなったり、順番が入れ替わったりと、いろんな混乱がみられるようになったため、世界中の修行僧が集まって何度も再確認のための集会を開いていました。これを「結集(けつじゅう)」といいます。
文字として残されるようになるのは釈尊の死後、500年あまり経ってからのことです。なお、仏教では当初、偶像崇拝を禁止していたのですが、仏像が製作され始めたのも紀元後すぐのことです。
当初の経典には、個人の具体的な悩みに対する釈尊の考えが述べられています。死なない人間はいないだとか、愛があるから憎しみや争いが起きるのだから、愛しい者を作るな、であるとかです。
しかし後世になって、大量の経典が新たに編纂され、経典自体が神聖化されていくようになります。そしてこの経典の功徳というものが意識されるようになります。とはいえ、この頃の考え方では経典の功徳は全人類の幸福を祈念するものでした。大乗仏教運動が起こり、仏教は個人的利益にも目を向けるようになります。一連の観音経などは、完全に個人的な現世利益を説いています。さらに、末法思想が流布し始めると、今度は来世に浄土に生まれ変われるように、との祈りが込められるようになりました。さらに中国の道教と集合した仏教は、地獄思想を仏教に持ち込み、追善供養という儀礼が始まるようになります。
こうして読経の意味は時代や場所によってどんどん変わっていったのです。
でもね。読経の基本はいつまで経っても「願似此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道(願わくば此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我れ等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを)」、つまりは世界中の人たちが幸せでありますように、なのです。

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