今を生きるための現代詩(渡邊十絲子)

 どんな芸術分野でも、もっとも尖端的なものは、大衆的ではない。多くの人にとって、なんだか理解しにくいものであるのがふつうだ。
 でも、そういう最尖端作品を味わうやり方は、ふつうの人が想像しているよりもいろいろある。その分野の批評的文脈のなかに位置づけたり、作者の思想を読みとったりすることだけとはかぎらない。
 美術商が通りすがりの画廊にかかっている絵を見て「眼鏡をはずして見たほうがいい絵に見えるなあ」とつぶやく。
 ファッション記者がパリコレクションを見に行き、連れに「ねえねえ、折り返しの縁のところだけ青いの見た? あれかわいかったよね」と話しかける。
 そういうちょっとした魅力のとっかかりは、無数にある。それはあくまでも「自分にとって」魅力があればいいので、誰にも賛同してもらえなくても、自分だけが発見したその魅力点について考えつめているうちに、もっと普遍的な「読み」に合流していく可能性がひらけている(もちろん合流しなくたっていい。これまでのどんな説ともちがう斬新な読みをうちたてて人を説得できたら最高だ。渾身の「読み」は、ときに詩を書いた本人による解釈をも更新する)。

3 thoughts on “今を生きるための現代詩(渡邊十絲子)

  1. shinichi Post author

     
    今を生きるための現代詩
    by 渡邊十絲子

    詩は難解で意味不明?
    何を言っているのかわからない?
    いや、だからこそ実はおもしろいんです。
    技巧や作者の思いなどよりももっと奥にある詩の本質とは? 谷
    川俊太郎、安東次男から川田絢音、井坂洋子まで、日本語表現の最尖端を紹介しながら、味わうためのヒントを明かす。
    初めての人も、どこかで詩とはぐれた人も、ことばの魔法に誘う一冊。あなたが変わり、世界が変わる。
     
     

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  2. shinichi Post author

     日本のマスコミは、ここ二三十年、「やさしくて伝わりやすいのが善、むずかしくてわかりにくいのは悪」という洗脳を、総力をあげておしすすめてきた。だから、自分が洗脳されていることに気づかないまま、「ぱっと見て意味がわからない詩なんて存在価値がない」と言いきってしまう単純な人もいる。これも現代詩への逆風のひとつだ。
     ちょっと考えてみれば、「むずかしい」は「やさしい」より確実におもしろくてたのしいことがわかる。
     自転車は補助輪をつけて乗れればじゅうぶんだと考える少年がどこにいるだろう。みんな、ころんでころんで、ひざをすりむいてべそをかきながら、それでも自転車にのろうとしつづけるのだ。乗れたらたのしいから、ただそれだけの理由で。手をはなして乗れたらもっと自由になれるし、たくさん乗せたせいろそばを肩にかついで乗れたら、さらに上等な自分になれる。
     麻雀ができるのにババ抜きで徹夜しようという大人もいない。ババ抜きには勝負のあやも心理戦も、だれかをはめたりけおとしたりする策謀もない。人は智恵のかぎりをつくして誰かをうち負かすのがたのしいのだ。そんな快感を味わうためなら、複雑でめんどうな点数計算さえ、いつのまにかおぼえる。算数が大きらいだった人でさえ、すすんでおぼえるのだ。
     世界の名作小説のこども向けダイジェストは、みな気のぬけたサイダーみたいにつまらない。ダイジェストの技術が稚拙だからではなく、レベルをおとして改変したものはすべてつまらないのである。
     現代詩はむずかしい。でも、むずかしいからおもしろいのだ。

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