日本の美(中井正一)

 日本の神話で、いちばん印象の深いものは、あの天の岩戸の巌の扉が、静かに開いて、さやけさをきわめた清らかな光が、闇をきり裂いていくあの瞬間である。暗いもの、ただよう重くるしいものが、人々の笑声の中に、きりさかれて、清い清々しい光の中によみがえっていく瞬間はまことに美しいかぎりであります。
 日本語では、「ああきれいだ」とよくいいます。
 この「きれい」ということばは、さっぱりとしたすがすがしいもの、滞ったもの、重くるしいもの、暗いきたないもの、何か殻のようにこびりついたものが、何にもなく、「蛇の目をあくで洗ったような」ということわざがありますが、清くけろりとしたもののことをいうのであります。
 あの人のやりかたが「きれいだ」というのも、そんな歯切れのよいやりかたのことをいうのであります。これ見よがしの、もったいぶったひねくったものが、ほんに匂いのようにあっても、人々はそれを「きれい」だとはいわないのであります。

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    日本の美

    by 中井正一

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    三 日本のこころと日本の美

     日本の神話で、いちばん印象の深いものは、あの天の岩戸の巌の扉が、静かに開いて、さやけさをきわめた清らかな光が、闇をきり裂いていくあの瞬間である。暗いもの、ただよう重くるしいものが、人々の笑声の中に、きりさかれて、清い清々しい光の中によみがえっていく瞬間はまことに美しいかぎりであります。
     日本語では、「ああきれいだ」とよくいいます。
     この「きれい」ということばは、さっぱりとしたすがすがしいもの、滞とどこおったもの、重くるしいもの、暗いきたないもの、何か殻のようにこびりついたものが、何にもなく、「蛇の目をあくで洗ったような」ということわざがありますが、清くけろりとしたもののことをいうのであります。
     あの人のやりかたが「きれいだ」というのも、そんな歯切れのよいやりかたのことをいうのであります。これ見よがしの、もったいぶったひねくったものが、ほんに匂いのようにあっても、人々はそれを「きれい」だとはいわないのであります。
     日本の神殿の中心である伊勢神宮が、二十一年ごとに建てかえられつづけながら、ここに一千年もの間、しかも滅びることもなく、その様式方法も変えられることもなく、ここにいたっていることも、まことに注意すべきことであります。
     北京の紫禁城のように、または遠く、あのエジプトの宮殿のように、大きく、いかめしく、滅びることがないことを誇りとして、造ることを嫌い通すことが、むしろ日本では千年つづいたといえましょう。
     アテネのアクロポリスも崩れ去り、エジプトのティスの宮殿も消え去り、インダス、インカの神殿も原型をただ想像にまかせるのにすぎないのに反して、この二十一年目ごとにみずから滅すことを堅くまもりつづけた日本の神殿のみ、木の香もあやに、今まさに、千年の時の中に、その原型を保ちつづけているのであります。
     清純であることは、新しく生きていることであります。この清純を求めることを千年の間変えなかったということを、私たちは、今さらのごとく、もう一度みつめてみねばならないのであります。
     二十一年の僅かの歳月も、もし、それが素シラ木で作られているならば、それは、古くなずむものとなるのであります。汚れることとなるのであります。
     だからあえて、素シラ木を用いて造る時、すでに脱出の用意をしながら、そのうつりゆく清純な生成感、生きているという「なまな香り」を神殿の本質と考えようとしたことは、世界に類例のない、民族の「こころ」であります。
     死んだものは汚れたるものであり、生きているという「しるし」、香り高い、みずみずしい、さかんなるもの、ひきしまったもの、滞とどこおらないもの、常に自分自身からぬけだして発展していくものを、彼らは、「うるわしきもの」とよんだのであった。
     かくして「うるわしきもの」であるためには、刻々、古めかしく、なずむものをたたきつぶすということ、かたくなり殻のようなひからびたものをぬけだすということ、じっとよどむものから、サラサラと流れ、動きはじめるということ、つまりはたらきそのもの、すなわち行動が美しいことの条件となってくるのであります。
     たたきつぶすこと、打破すること、ぬけだすこと、脱出すること、流れ新しくなること、流動するということ、この行動の中に美が生まれいでることとなるのであります。
     だから、巨大なもの例えば大仏のようなもの、いかめしきもの例えば曼陀羅の絵のようなものは、中国の北方文化、すなわち巨大なる官僚国家の影響のもとにあるものであって、日本に入ってくると、やがてそれは、いつもそれを新たに変形し、新しく解釈し、新しく創造していったのであります。
     中宮寺の観音のあの流れしたたるような美しさは、中国の北魏の仏像の固定したものからは、はるかに異なったものであります。
     かの有名な鳥羽僧正は、いつも朝廷でいかめしい服をきて絵をかかされるのが大きらいでありました。彼が朝廷から自分の寺へ帰ると、野暮ったいいろいろのころもをすっかり脱いでしまって、真裸になって第一にお風呂に飛び込んだといわれています。いつもそんなことをするので、悪い友だちが、いじわるに、そのお風呂の水をなくして、わらや竹を入れておいたので、僧正は何も知らずにそれに飛び込んでお尻をうって気絶してしまった、ということさえ伝えられています。
     いかめしい官僚的な絵を描かされたその絵は残らずして、うさぎや鹿が水の流れの中で遊びたわむれているあの『鳥獣戯画巻』の絵巻物が、彼の傑作として伝えられて残っているのであります。
     彼が衣を脱いで風呂の中に飛び込んだこころは、今もなお、生き生きと生きている日本人のこころであります。よくわかり、人々の手をたたいてこころよしとするところであります。しかも、そのこころが縦横に描かれてあますところなく、形式としても日本独特の流れ形式を導きだしている絵が、あの『鳥獣戯画巻』として、日本人が愛好してやまぬものとなっているのであります。
     そこには世間には自由がないが、それぞれもとめ、もがいているこころ、そのこころが、この一巻きの絵巻きものの中だけでは、その自由をほしいままにし、その自由を得て、うさぎや鹿や猿と共に嬉々としてたわむれている。こころゆくまで楽しんでいるのであります。
     この絵の中には多分に、その当時の世の中を諷刺したものがあります。その世間を一歩ぬけだしたところのものがあります。中国の『詩経』もそういうところがありまして、鄭玄という東洋最古の美学者は、この詩を批評しています。中国の『詩経』の精神が豊かにみなぎり、この次に申すような文学のこころとなってまいります。
     大陸から仏教が伝わった時、多くの仏教の教えを題材とした工芸模様としてあらわれた、玉虫厨子の絵には、『金光明経』のなかの、飢えた虎に自分の身をなげすてて、それを救う題目を選んでいるのであります。日本人が多くの物語のなかから最初にめぐりあった驚きが、そこに描かれています。
     ころもを脱いで、木にかけ、断崖よりとんで飢えたものを救うために身を放つ精神は、巌を用いて、闇を裂いていく天の岩戸のすがすがしさを、新しいこころでもって嗣ついでいるのであります。
     日本の禅も、感覚的にこの断崖に、手を放って身を放擲することを説いてやみません。日本化した浄土教もまた、こころを虚しくして、おのれをなげすてることを、窮極の教えとして捉えるのであります。
     要するに、常に生きているというしるしのさわやかなるものをとどめ、くさり、汚れるものを脱ぎすてて、清く新しく、生き生きしたところのものに、身をひるがえして飛び込んでいくところのものを、いさぎよしとするのであります。
    『万葉集』の美しさ、「さやけさ」といい、『古今集』の「わび」、または世阿弥のいう「幽玄」といい、中世のいう「すき」といい、さらに江戸時代が好むところの「いき」の美しさといい、それを貫いているものは、すべて前にいったようなこころぐみを、時代時代が、その時その時の表現でもっていい表わしたかと思われるのであります。
     すべてこれ、きれいで、さっぱりとし、軽く、柔らかく、流れ動き、清く新しく、常に濁りと汚れと、重さから脱出せんとするところの、脱出の精神と行動がみとめられるのであります。その一々について次章から顧みてみたいと存じます。

    四 文学――さやけさ・もののあわれ

     今日は、日本の歌の世界で二つの精神といわれている『万葉集』と『古今集』が、日本の美として、いかなる位置を占めているかを考えてみたいのであります。
    『万葉集』は、一般にいわれるように、「人となりまことにまかせ、なほく、飾るところなし」というようなこころもちでうたっているのであります。すでにうたうこころがまえが、そのこころの真実を一すじに通し、唐竹を割ったように、まっすぐにいいたいことをいい、うたいはなつのであります。それをいいつくろったり、かざったりするのがもどかしく、めんどうでそんなものをかなぐりすてて、こころのありたけをいいのけてしまうのであります。
     そこで、『万葉集』には、ずいぶん多くの歌がありますが、全体にかかる自由な精神が、みちあふれています。その飾り気のなさ、明かるさ、すがすがしさ、つまり、一言にしていうならば、まつわりつく暗いもの、ややこしいものを、一刀に切って捨てるような率直なもの、これを、清明の精神と人々はいうのであります。
     しかし、多くの歌の中には言、いいのもあれば、悪いのもあります。また幼いと思えるのもあれば、言葉の足りないのもあります。しかし、その歌の美しさは、文字の技巧ではなくして、その歌から立ちのぼる、焔のもつ清らかさが、人々の魂をうつのであります。

    稲つけば かがる吾が手を 今宵もか とのの若わく子ごが とりて嘆かむ
    おのがじし 人死にすらし 妹いもに恋ひ 日にけに痩せぬ 人に知らえず
    今は吾あは 死なむよわが背恋すれば 一夜一日も 安けくもなし

     かかる歌は、ひたすらにその情熱の輝きをうたいつくしているのでありますが、かかる純情が、その切実なこころの集中を、自然に目をむける時、やがてそこには、澄み透った自然が裸のままの姿を現わすのであります。

    足曳の山のしづくに妹まつと われ立ちぬれぬ 山のしづくに
    一つ松いく世か経ぬる吹く風の 声おとの清きは年深みかも
    あかときと夜鴉なけどこの山下をかの 木末こぬれの上はいまだ静けし

     かかる歌を味わってみますと、澄み透ったすがすがしいこころを通してのみ、見ることのできる自然が、そこに描かれているのであります。
     こころが集中して、こころのかざりがなくなり、ただすなおな虚ろな静けさをもって、自然に相対する時、そこにあらわれる深い沈潜が、何か人生の寂しいまでの奥底を見せてくれるかのように思われるのであります。
     常に芸術は、それが自由な道をたどると、人々に真実を見る目を養うのであります。はやくも日本の文学は、その道をたどっていったことを、われわれは、深く顧みて、われわれの誇りといたしたいのであります。
     私たちは、山上憶良の「貧窮問答歌」を読むことによって、万葉の歌が、どうしてできたかを跡づけてみたいのであります。

    風雑まじへ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は
    術すべもなく 寒くしあれば
    堅塩を、とりつづしろひ
    糟湯酒 うちすすろひて
    咳しはぶかひ 鼻びしびしに
    しかとあらぬ ひげかきなでて
    我あれをおきて 人はあらじと 誇ろへど
    寒くしあれば 麻ぶすま 引きかがふり
    布肩衣ぬのかたぎぬ ありのことごと きそへども
    寒き夜すらを
    我われよりも 貧しき人の
    父母は 飢ゑこごゆらむ
    妻子めこどもは 吟によび泣くらむ
    この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

    天地は 広しといへど
    吾あが為は 狭さくやなりぬる
    日月は 明かしと云へど
    吾あが為は 照りや給はぬ
    人皆か 吾あれのみやしかる
    わくらばに 人とはあるを
    人なみに 吾あれも作るを
    綿もなき 布肩衣の 海松みるの如
    わわけさがれる 襤褸かかふのみ
    肩に打ちかけ
    伏廬ふせいほの 曲廬まげいほの内に
    直土ひたつちに わら解きしきて
    父母は 枕のかたに
    妻子どもは 足あとのかたに
    囲かくみゐて 憂へ吟さまよひ
    かまどには 火気ほけふき立てず
    こしきには くもの巣かきて
    飯いひ炊かしぐ 事も忘れて
    ぬえどりの のどよひをるに
    いとのきて 短きものを 端切ると いへるが如く
    しもと取る 里長さとをさが声は
    寝屋戸ねやどまで 来立ち呼ばひぬ
    かくばかり 術なきものか 世間よのなかの道

    世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

     この歌に見えるごとく、「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」この句ができる背後には、人生の真実を見る目が、かくのごとく冷たく、澄み透って、横たわっていたのであります。
     山上憶良は、唐の都長安まで、いったことのある人であって、深い学問と、芸術による真実を見る目が、かかる歌の精神を導きだしたといえるのであります。かかる精神はすでに、後の『源氏物語』『古今集』に現われる「もののあわれ」とでもいうべき精神につながっていると、私は思うのであります。
     源氏の須磨の絵日記でいうように、芸術への態度は、いわば、深いせつなさをもって、物に対決しているのであります。「かかる上手の心の限り、おもひすまして静かにかき給へるは……」という、沈潜する態度を「もののあわれ」というのであります。
    「かかるさまの人は、もののあはれもしらぬものとこそききしを」といって、物に対決するこころの切実さが、こころ凝って哀感とも、吐息にも似たものとなってくるのであります。
     やがてそれが、『古今集』のこころになってくるのでありますが、しかし悲しいかな、この歌のできあがりかたは、日本民族の全体の歌を、人々の記憶から集めた『万葉集』の形ではなくして、朝廷に仕える、高位高官の人々、たまに歌にたん能な、位低き人を加えて、少数の貴族官僚の中から、選ばれたのでありますから、すでに材料の量において、まことにかぎられているのであります。したがって、『万葉集』にくらぶるべくもなく、特殊の歌だけが、集められていることになるのであります。しかし、この人々は、世界に稀な形式をもって、政治をも忘れるほど、その宮廷は、歌の世界、詩の世界に浸っていたともいえるのであります。そこで、言葉の調子の美しい歌としては、その爛熟のきわみにまでいたったともいうべきでありましょう。

    久方の ひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ

     この歌に見えるごとく、久方、ひかり、春の日、花の散る、の文字における、Hの音のいかにも軽い、いかにも明るい言葉の調子が、歌の内容の中に解け込んで、比類なき美しいものとして、ハーモニー、すなわち和音をかなでております。これは日本人だけにひびく、夢のような美しさであります。
     深い切なさをもって、物に対決するこころのみが、かかる美しさを導きだしてくれるともいえるでありましょう。
     ここにも、流るる水のごとく滞とどこおることなき清らかさと、軽さの美しさが、淡い哀感の中に、滲みでているのであります。

    五 文学――幽玄・わび

    『新古今集』の精神において、歌をよみいでる態度を見ますのに、藤原定家は次のようにいっています。
    「亡父卿(俊成)のよみ給ひしこそ誠に秀逸も出ぬべけれ、深更にとの油ほそく、有かなきかのにむかひ、なほしのすすけたるうちかけ、ふるきゑぼし耳までひき入れたまひ、脇息により、桐火桶をいだき、詠吟のこゑ忍びやかにして、夜たけ入しづまりぬるにつけて、うちかたぶき、よごとなきたまへるとなん。まことに恩入たまへる姿有難くこそ侍れ」と、申しておりますが、彼が生きている現実は、源平の戦いによって、眼前に、多くの人が死に、兵乱の中に、多くのものが焼けていったのであります。これが現実のほんとうの姿かと思えるほどの、手触りの荒い現実が彼らの前に聳え立っていたのであります。渺茫びょうぼうたる戦争の廃墟の中に立った者のみの知る、絶望を味わっているのであります。この絶望の中から、芸術を守ろうとするもがきが、かかる幽玄の世界を形づくっていくのであります。
     かかる幽玄の世界に彼らはいかにして到達したでありましょうか。
    「ただ寝食も忘れ、万事を忘却して、朝夕の風のこゑに心をすまし、いつも胸中に大疑団のあるごとくにあかしくらせば」……自然にその世界に入ると、『耕雲口伝』にいっています。
     定家も「稽古だに入候へば、自然によみいださる事にて候」、すなわち訓練、ただ訓練のみによっていつか、かかる詩をよみうる境地に達するというのであります。また定家は、次のようにいっております。
    「ねこじたる入ほがのおほく侍るは、第一の難事なり」、すなわち、ひねくった、もったいぶった、これでどうだどうだという、いばり顔の多いのには、一番へこたれるというのであります。またつづけて彼はいっています。
    「このふり力なきことなり。これ一人がする所にあらず、深き浅きこそあれ、誰もこれを離るること有難し」(こんなことをしてもなんにもならないのである。これは、一人や二人がするということではない。深いか浅いかのちがいはあっても、誰でもこの傾向を離れることはむつかしい。自分の中にすら、それはあるのである)というのであります。
     多くの場合、自分の詩、歌の姿は、何となく、一癖も二癖もついて、これみよがしにする態度、自分が自分でよいと思い、人にほめられた自分をまたしても自分がまねをし、そのまねをする態度に滞とどこおること、すなわちマニエールを、彼は極度に嫌っているのであります。
     定家は、この嫌うこころを、「万機もぬけ物にとどこほらぬ」といっています。すなわち、自分自身をありとあらゆる角度から、突っかい棒しているあらゆる「からくり」を、はらはらと取り崩して、中空に身を投げだすことであります。その物に滞とどこおらぬ、さわやかな世界を、彼はねらっているのであります。
     その世界は、余情ふかく、捉えんとして捉えられず、味わいつくせざるものがあり、すずろに胸にせまりて、姿さびしく感嘆にたえざるものがみなぎると彼はいうのであります。かかる世界が、俊成、定家のいたらんとした世界であります。

    人住まぬ 不破の関やの板びさし 荒れにし後はただ秋の風

    「ただこの二字 かの御胸にありけることよ。あなおそろしや」と正徹はいっております。人の住まない不破の関の、荒れた板びさし、ただそこにげき然として声なく、ひそかな余情が、あらわれているのであります。もはやそこには、『古今集』のただ浮わついた美しさでなく、絶望に耐えたるもののみが見うる世界であります。

    年たけて 又こゆべしと思ひきや 命なりけりさよの中山

     この西行の言葉も、老いさらばえて、ただ一人、このさよの中山の道を、もう一度通ると、誰が思いえたであろう。宇宙の中に、今しも生きている自分が、このさよの中山に、今ここにあることよ、という叫びは、人生への絶望のはてにたたずんでいる巨大なる現実というべきでありましょう。もはやここでは、決して言葉の戯れではなく、戦いと焔を貫いた、あるいは生きる道の苦しさに喘いだものの魂が、万葉の中にあった切実さをも捉え、またいわば『無名抄』にいうごとく、「されば如何にも、この体を心得ることは、骨法ある人との境に入り、峠を越えて後あるべきことなりけり」
     すなわちかかる世界に入るということは、一応歌の訓練を受け、それが自在にうたえる境地に入った後に、その訓練の坂の登りから、今度は、一気に万事を忘れて下っていく、逆の方向となっていくというのであります、ここでは、もはやうたいあげんとする一つの目的、対象とうたう方法のあらゆる技術というものも、やがてさもあらばあれということになるのであります。むしろ、責めるべきことは、人生の中にひそむ、また人間の中にひそむ、あるいはまた自分の中にひそむ、愚劣さに驚嘆し、ある意味においては、ほとほと笑いだし、握る力も、技わざも抜け去った世界から、出発するという、絶望のこころが、うたいだす芸術ともいえるのであります。この中世の日本の芸術は、かかる意味における、脱落よりさらに脱落を志す魂がみなぎっているのでありますけれども、あまりにも、時代自身が愚劣であり、歌を選ぶ方法も、貴族官僚の中にとじこめられていましたから、輝かしき歌は実に僅かであり、星のごとく稀にその中に輝いてはいるけれど、しかしそれは決して亡びることのない光であり、永遠に人の心を鼓舞するところの光茫を放っております。
     能の世界でいうところの「幽玄」あるいは「わび」も、世阿弥が導きだしたところのものであり、彼の「凍しみ氷りて、静かに美しく」といっている世界は、やはりかかるきびしい精神をいうのであります。彼が、将軍から勘当されて、ただ一人、佐渡の島に流され、佐渡の島に起った多くの戦乱と戦火を逃れつつ、転々と、その廬いおりをかえながら、その廬いおりでただ一人、扇をかざして、舞の工夫をしていたというのであります。かかる芸術家の現実にこそ、初めて、技術のきわみから、技術を超えて帰ってくる幽玄の世界が現われるのであります。彼はいいます。
    「上手の、極め到りて、闌たけたる心位にて、時々異風を見する事のあるを、初心の人これを学ぶことあり、この闌たけてなすところの達風、さうなく学ぶべからず」
     この世阿弥の「闌たける」という言葉「闌たけかへる」という言葉は、さきの「峠を越える」という言葉と同じく重大なものであります。日本の中世の芸術が初めて到達した文化遺産というべきでありましょう。つまり、天才が、訓練をきわめた後に、ある意味において、安らかに、ある意味で、そのフォームを崩すまでにいたることがあるのであります。この、ちょっと変わった自由な芸術を、練習中の人が、うっかり、これをまねしたら、とんでもない誤りをなすことを、世阿弥は忠告しているのであります。近代の芸術にも、よくディフォルメイション、形を崩すということがありますが、これを練習中のものがすると、大変なことになることを、われわれは深く知るべきでありましょう。日本の中世の芸術は、はやくもこの危ない瀬戸際、芸術の心髄にのみある美しい危険な機微な箇所にまで、あえて身を挺して、到達したといえるでありましょう。

    六 文学――軽み・いき

     これまで万葉より、古今、新古今の精神が、文学の中にいかにあらわれたかを顧みたのであります。
     今度は、徳川時代、江戸の文学の精神について考えてみたいと思います。
     江戸の人々の好みの中で、一般に「いき」という好みがあります。これはついに江戸、東京のみならず、徳川時代の日本全体にゆきわたった一つの趣味であります。いわば、美の一つのかたちであります。江戸時代の文学者の代表というべき芭蕉は次のようにいっております。
    「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於けるその貫道するものは一なり」
     ……中世の和歌の第一人者の西行法師のたどった道も、連歌の第一人者である宗祇という天才のいきついたところも、画家である雪舟がきわめつくした絵の極意も、お茶の利休が、立ちいたった芸道の涯はても、いろいろその芸は異なり、人も違っているが、それを貫いている美の精神は、ただ一つであるに相異ない、と彼はいっているのであります。
     そのただ一つのものは、しかし、ポケットからいつでも出せる「物指し」のように簡単でもなければ、単純なものでもないのであります。それは、間断なき用心のもとに、それを追求し、追い求め、探り求めることによって、いよいよそれが同一のものであり、いよいよ遠く高く求めていかなければならないものであることが、わかるのであります。
     芭蕉は申します。「古へより風雅に情ある人々は、後に笈をかけ、草鞋に足をかため、破笠に霜露をいとふて、おのが心をせめて、物の実を知ることをよろこべり」……すなわち昔から美を追求し、探り求める人々は、わらじをはき、旅笠をかむり、背中に笈(リュックサック)をせおい、先人がうたった歌枕をたずねて、それらの作品の奥底をたずねることによって、自分のなかになまぬるくたまっているマンネリズムや、見てくれのマニエールを、きびしく批判し、切ってすてて、真にリアルな物の根底にまで追い求めることを、こころがけていたと芭蕉は考えたのであります。
     西行が命をかけて旅をし、芭蕉もまたそれにならった歌枕の旅は、日本にのみある芸術の鍛練のしかたであります。
     その詩の精神の奥底をさぐるべく、その作者がそれを作ったと伝えられるその場所に旅して、その場所に立ちつくして、その詩の精神の深さを探り求めるのであります。
     日本の美を形づくっていくにあたって、民族は、かかる世界に類例のない巡礼の旅、ピルグリムをしつづけたのであります。
     そして、時代が三百年、五百年と異なっているにかかわらず、その場所に立って、その詩を作った三百年、五百年前の人のこころをじかにふれて、日本の美の奥底を、次から次に伝えてきたのであります。
     芭蕉は、この旅の中から、何をうけつぎ、何を後のものにバトンのごとく手渡したでありましょう。
     芭蕉も一生のうちにいろいろのさまよいをいたしました。江戸の豪華の中にも住みました。吉原の爛熟と無縁でもありませんでした。しかし、彼が、この旅路の中の涯はてに見つけだしたのは、「軽み」という日本の美の世界でありました。これは、そのまま、江戸の「いき」にも深く貫き透るものなのでした。
    「翁今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり、其処に至りて、意味ありと侍る」
    「当時の教、軽(かるみ)を専にするは、往時の重みを破らんが為也。軽(かるみ)にあらずんばいかでか旧染(昔からある)の重を破らんや。」と去来もいっています。
     芭蕉が、この軽みを大切にするのは、これまでの芸術が、西行、宗祇、雪舟、利休の根底に横たわっているものにくらべて、何か、くだらぬ重くるしいものが、つきまとっていたから、それからぬけだすために、この「軽み」なる世界を切り展いたのであります。武士の世界も、もはや立ちあがりの時の生き生きとしたその昔の精神を失って、から威張りの重っぽいものになっている。それから脱出せんとしたのであります。
    「此道は、心、辞、ともに新しみをもって命とす。是流行の句の行はるる所以なり、よく流行するときは(流れ動くときは)、活々然として(いきいきとして)、万歳を終へて(永遠に)新なり。久しく留まるときは、これ濁ておもく、今の軽(かるみ)を用ふるは当時の(今の)流行にして、往時の変風なり(むかしではめずらしいものであった)、此を察したまへ。翁日、俳諧は暫も住すべからず、住するときはおもし」。すなわち芭蕉はいうのです。俳諧は、ちょっとのすきの間も、これでよい、どうだどうだと、腰をおろして、みてくれの芸風マンネリズムの中に安んじてはいけない。すべての芸術は、しばらくもちょっとでも一度ほめられた自分のまねをしていると、野暮ったく、重くるしく濁ったものになってしまう。美は、いつも、浅い川を水が自由に、自在に、みずからの道を流れ去るように、あくまで軽く、あくまでいさぎよく、新しくあざやかであるべきであるというのであります。
     これは江戸の新しい精神「いき」の根底を流れるものであったのです。
     この軽みは、それですから、決して、浅薄なことではなく、すでに重たいものとなっている武士の気分を「野暮」として、それをぬけだし、脱出せんとする「いさぎよさ」とでもいうべきものであります。
     武士が裃かみしもを着、長袴をはいてガバガバと音をたてて歩いている野暮ったさからぬけだして、サラッとした浴衣着をして、肌もあらわな町人の意気を「いき」といい、「すい」といったのであります。この「いさぎよさ」が軽みの美しさにほかならないものであります。
     たとえ極彩色でも光琳、宗達、一蝶の芸風は、この洒脱、洒落、もったいぶったものからほうりおちる、いさぎよさの美しさがそこにみなぎっているといえましょう。
     このいさぎよさ、この果敢さは、裸一貫、かのフィリッピン呂宋ルソンの島に押し渡った呂宋ルソン助左衛門たちのつら魂から生まれいでたものであります。うつぼつたる町人根性から生まれいでたものであります。武士のこころが左右をかえりみ、前後をうかがって、命令系統をたどって身の安全を守っているようなしみたれたものになり下っていった時、かの大海に向ってやむにやまれず、小さな舟に身をたくし、大浪を乗り切って、商業の機構のもとに新しい社会を切り開いていった人々のつら魂から生まれてきた、新しい美への態度といえましょう。
     この「いさぎよさ」、果敢なるものがなくして、あの太平洋をおし渡ることはできなかったし、またそれこそ、徳川三〇〇年の封建国家は、怖れて鎖国として、国を鎖でしばり閉ざしたのでもありました。この「いさぎよさ」を、この島の中に閉じ込め、閉じ込めたるがゆえに、それに反発するものとして、「意気」の美しさの世界、「軽み」の美しさの世界が、この武家の支配の国家の中に、生まれいでたのでもあります。
     幡随院長兵衛が、丸裸で、水野家の槍ぶすまの中に突っ込んでいく「いさぎよさ」、これが、当時の劇作家が描かんとした町人芸術の、新しい人間像であったのであります。
     大きく、ふとく、果敢である「いき」の美しさの一つの類型となったのであります。
     かくして、江戸町人は、ついに万葉、古今、西行、世阿弥、雪舟、利休のもつ美の伝統を、かかる「いき」のかたちでうけつぎ、流動してやまざる清く新しいもの、浅き川の水の流れのごとき「いさぎよさ」、その「軽み」として再発見し、再成し、日本の根底を流れる美のすがたに一つの華をそえ、発展していったというべきでありましょう。

    七 美術(その一)

     これまで私は、文学にあらわれた、日本の美を考えてみたのですが、これから三章ばかり美術にあらわれた日本の美について、顧みてみたいのであります。
     文学で顧みましたところは、古代から中世、近世にいたるまで、いろいろ美のすがたは異なっていました。万葉の「さやけさ」の美しさ、古今の「物のあわれ」の美しさ、中世における「わび」「すき」の美しさ、江戸の「いき」の美しさ、その美のあらわれかたはいろいろありましたが、しかしその根底に流れているものをつきつめてみれば、さっぱりとした、きれいなもの、切実であるがゆえに、こころのかざりなく、ただすなおな、ただ何もない虚ろかと思われるほどの、深い緊張といったようなものが、うかがわれるのでありました。かかる芸術の生まれいでるこころを、いずれの時代の芸術家も、「無所住心」(住みつく所なきこころ、何らかの一つ所に住みつかぬすがすがしい軽いこころ、無限なる自由の魂)といっていました。
     江戸の俳人支考も、連句のつけかたを、「はしり」「ひびき」「におい」といって、さらにつけ加え、「無所住心のところより付きたらば、百年の後無心の道人あって、誠によしといはむ、いとうれしからずや」といっています。前の句を、このすみつくところなき、無限なる自由のこころをもって受けとる時、みずからいでくる付句を軽くつける時、もし百年の後に、その付句を読んでくれた人が、やはり無限の自由のこころでもってこそ理解して、まことによしといってくれたなら、どんなにうれしいことであろうというのであります。
     この無限なる自由なこころ、一つのところに住みつかぬ、流動してやまぬ生きたはずみのきいているこころ、これを日本民族は、美しい魂といっていたのであります。
     このこころから美が生まれいでるといっていたのであります。
     このことを、美術の世界で顧みてみたいのであります。
     ブルーノ・タウトは、日本にまいりまして、伊勢神宮の建築に、まったくうちのめされたといってよいくらい、美しいものとして感激したのでありました。彼は彼の著書で次のようにいっています。
    「伊勢神宮は、人間の理性を反発するような気紛れな要素を一つも含んでいない。その構造は単純であるが、しかし、それ自体論理である。……殊更に技巧を凝らしたところは一つもない。しら木は清楚であり、飽くまで浄らかである」
     そして彼は、この伊勢神宮は世界の建築がその根拠を求めるべき総本山、元締めともいうべきメッカであるというのであります。
     そして、彼はつづけて、西洋の人たちが「日本から学びとったところのものは、清楚(きよらかさ)、明澄(さやけきもの)、単純、明朗、自然の与える素材に対する忠実」であるというのであります。
     そして、特に彼が注意したところのものは、日本の茶の形式の「部屋」「室」は、平常はいつもなんにも置いてなく、「虚」(うつろ)のままにしてあることであります。それは西洋の部屋のように、いかなる過去の追憶も、記念品も置いていないことに、深く感動をこめて書いているのであります。
     西洋の部屋は、これまで、いっぱいに家具、カーテン、置物、飾物でかざりたててあるのであります。
     これに反して、日本の本格式の建築物は、何にもない「虚ろさ」、このきびしい空虚が、その本質となっているのであります。これは案外日本人自身が気がついていないことであり、日本人の根本のこころがまえの自然のあらわれとも考えられるのであります。
     日本人のこころの姿勢の中に、さきの無所住心、すみつくところなきこころといいますか、無一物中無尽蔵とでも申しますか、悠々たる空虚、無限の変化に、機に応じて適するところの柔軟きわみなきこころの構えがあるのであります。このこころが建築の精神の中に、つまり住むこころの中にもあることを、教えてくれるのであります。
     さきに申したごとく、日本人のこころの構えは、文学の世界では、無所住心、すみつくところなきこころ、染着の習性をはらって、日に新たに、日に日に新たに見てくれのすみつくこころを去り、これ見よがしのマニエールを去ってきたのでありました。
     ところが、日本人の自分の住む家は、ブルーノ・タウトのいうごとく「室全体は開放されて、通気が自在である」。すなわち、障子、ふすまをはらえば、自然の中に解き放たれるごとく、自由といい、自在といい、それは東洋のいうところの無所住心の爽やかさが、その根底に横たわっているのであります。
     このことは、建築の内部のみならず、その柱のもつ意味においてもあらわれているのであります。
     かのギリシャの建築におきましては、柱はギリシャ建築特有のエンタシスという形式をもっております。あたかも、すべての重さを支えてついに支えきれなくて、じっとふくらんでいるように、柱の中ほどがこころもちポーッとふくらんでいるのであります。これはギリシャ人特有の「運命をたえる」あの強い魂をよくあらわしているのであります。あのラオコーンの彫刻の像が、じっとたえて吐いている吐息のような強いあきらめのこころが、このギリシャのエンタシスの柱によくあらわれているのであります。
     それに反して、あのヘブライの建築、後のすべての教会の建築の柱がそうでありますが、この教会の柱と塔の様子は、このギリシャ建築とおよそ異なったものなのであります。
     教会の建築は皆さまがごらんのように、それらの柱は、全部いっせいに空に向って立ち向っているのであります。天に登るためにつくった「バベルの塔」のように、一つ一つの柱、一つ一つの塔のさきは、天に登らんとして登りきれなかったかのように、空に向って尖とがり、つきささり消えていくのであります。それは魂としては「あこがれの魂」であります。
     ギリシャが「あきらめの魂」とすれば、何か遠くあこがれ、憧憬し、やまぬこころがこの建築の様式にあらわされています。ギリシャが過去の民族の栄光をうたい、現在のかなしみにたえているとすれば、ヘブライ建築は、遠い未来をあこがれて、現在をのがれているのであります。
     ところが、日本の茶室形式は、その室が、すでに空虚そのものであるように、その柱も、そこに何の重さを感ぜず、また何も天を貫かんともしないのであります。中国の影響の強い法隆寺などではエンタシスが残り、また、五重塔のような空への方向を残していますが、純粋の日本的なものとなってくると、金閣寺の建築に見るごとく、その建築全体に重さというものを感ぜしめないのであります。この建築の全体が、その頂いただきにいただくと共に、まさに空に飛び立つかもしれないほど、この建物には重さの感覚がありません。世界の建築で、これほど、軽い感覚の建築はあるまいと思えるのであります。といって天へ向っての方向もないのであります。飛行機の翼を思わせるようなきれた鋭いカーブをすらもって「軽さ」だけを指し示しているのであります。柱は、すぐそばの松の木とよく調和して、ふすまをはらえば、さわやかな松の林とも思えるたたずまいであります。
     しかしこの建築はよく見る時、大自然の大きないとなみの中に、「今と、ここに」みごとにとけ入り、調和し、身をゆだね、じっと現実の論理の中にところを得て、静かにしずまっているのであります。ここには、何の目的もなく主張もない「無所住心」、軽く美しいこころがみなぎっているのであります。
     これは、コルビュジエ、ブルーノ・タウトが追求した、近代建築の精神でありますが、それをはやくも二千年前より文化遺産としてつぎについでいる日本の美の精神を、私たちは今さらのごとく、ここに深い誇りといたしてもよいのではないかと思うのであります。
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    八 美術(その二)

     法隆寺の金堂に置かれてあった、かの『玉虫厨子』はご存知でしょうが、玉虫の羽根で飾られてあったと伝えられている実に美しい厨子なのであります。
     この厨子の壁に描かれている絵の題材は、仏教の『金光明経』というお経の中にある、ある物語なのであります。
     谷間に飢えている虎が、まさに死なんとしている。と、菩薩の修業をしている修道者は、自分の身を投じて、その虎に与え、それを救わんとするのであります。衣をしずかに脱いでいる場面と、まさに断崖に手を撒ふって、中空にまっさかさまに身をおどらせている姿がそこに描かれているのであります。
     真裸になり、身を飢ゆるものに投ずるという、みずから身を脱し、放ち、投げすてて、群生、もろもろの生きとし生けるものに捧げるという菩薩の道、今ごろ、アメリカでとなえられているアルトルゥイズム、「愛に身を殉ずる」というこころ、これは、日本の飛鳥時代の人々が仏教の入った時に、その中に盛られている精神の新しさ、壮大さに目をみはったところのものであったのです。
     思えば、インドにはじまり、中国にひろがり、アジア一体の人々のこころを愕然と驚かしたこの神話は、日本民族の最初の工芸の中に、かかる絵の姿で捉えられたのであります。それは、日本のこころに深く根ざしていたものが、より深いかたちでここに「めざめた」ともいえるのです。この菩薩は、身を断崖に放つことで、この絶望的な自分の滅亡で、身を大衆に殉ずることで、初めて、新しい自分のいのちに向って飛び込み、よみがえるのであります。禅宗でいう「断崖に手を撒って、絶後によみがえる」というこころなのであります。
     これまで、わが民族が、清く新たなるものを、清新なるものを愛するというのは、決して単に昨日が今日にうつりかわるという新しさを愛したのではないことを、教えるかのようであります。
     この新しさというこころの底には、自分から自分が脱出する、脱皮する、自分が自分を切ってすてることで、初めて、自分がすっかり新しいいのちとして生まれかわる、光にみちた他の世界を切り開くともいう「いさぎよさ」があるのであります。いろいろ、自分を保ち守りたいこころを、潔よく脱ぎすてて、絶望的に断崖より手を撒って、飢ゆるものにその身を投げすてるこの厳しいこころ、これが、この新しさ、壮大きわみない「新しさ」を切り開いていくのであります。死にきってのみよみがえる、蘇生のいのちほど、あざやかな新しさはありますまい。その表現がここに企てられているのです。
     中宮寺の思惟像(如意輪観音像)、そこに見られるこの時代特有の、流れるような美しさ、この美しさの中に動いている流動してやまないものが、何かきびしいものをもっています。裸の肩から、腕にあるすらっとすべるといいますか、切りさると申しますか、白い刃がひらめいたあとのような線の美しさがあります。
     それはまた法隆寺の百済観音にも、光背の輪の頂きから、流れる衣紋のはしまで、ズーンと貫き透るものがあります。
     私たちのこころのすみずみに、もやもやと、滞とどこおりなずみ、自分が自分のカスともつれあっているものを、きびしく、切ってすてるものが、それらの彫刻の僅かな、ひきしまった線の中にひそんでいるのであります。
     東大寺法華堂の執金剛神は、大きな声で大喝一声、それらのもやもやしたものをふきとばす表情をもっているのでありますが、中宮寺の思惟像は、ただ、静かにほほえんでいるのに、この執金剛神よりもはるかにきびしく、私たちのはらわたの中を切りはらい、清めすすぎ、ふきはらってくれるのであります。
     ただ、一本の線、腕から手を流れる線の中から、かかるきびしいものが、今の私たちに、じかに伝わってくるのであります。
     あごに手をあてて、寂しずかに考えこんでいる思惟仏は、弥勒菩薩と普通いわれております。弥勒という仏は、実は、人類を救わなければならないと誓った仏たち、五十三の多くを数える仏たちの最後の仏である阿弥陀如来すらが、ついに救えない人類がおるかもしれない……それを救おうとします。万能の仏ですら、その万人を救うという誓いがついに不可能であって、その救いにさえもれる人間、この絶望のなかにある人間のために、弥勒は、それを救わんとして、悲願を立てたにもかかわらず、いまだその救いを完成することができず、仏になることができずして、五十六億七千万年の永い永い修業をしているのであります。それは、世界に比類のない絶望の神話でありましょう。その人類を救いつくすことの不可能の悲しみ、その深い淵のような闇の中にのぞきこんでいる仏、その解きがたいほほえみに似た表情、それが、中宮寺の弥勒像なのであります。
     アジアの民族は、西方の民族にくらべまして、その生きるための努力の中のそのあやまち、その愚劣の深さに一度正面から絶望しているところがあります。今後西方の人たちが直面するかもしれない人類の絶望に、まっすぐにすでに対決を終っています。しかし、それは単なる絶望にとどまってもいません。この絶望の中から、この現実が、しかしやはり論理的なものをもっていることを、果敢にも厳然と確認せんとします。あるいは平たくいえば、この現実の中に、いまだ論理的なものが、人間の営みをのぞいてはみちみちており、人間の営みの中にもそれが残っており、それが必ず芽生えることを信じ、それに大きな賭博にかけるようにかけるのであります。アジアの大乗仏教のこころには、かかる不敵なる賭けがあります。快い全身をふるわす戦慄に似た賭けをしています。
     絶望の中から立ちあがる強靭な願い、悲しみの中から立ちあがる願い、悲願の貫く決して曲がらない鋼のような強靭さと、その僅かなたわみが、あの中宮寺の思惟像に見られる線なのであります。よく線の美、線の美といいますが、線こそは、美術の無限なる言葉の基本的な文法であります。そして日本の芸術家は、世界の芸術家が、この千年の間に、一度も達したことのない深さでのみ「かたる言葉」を、これらの線の中にものがたろうとしているのであります。
     一度絶望の中に立ちつくしたる仏の願いを、裸の人間像の中に彫りだす時、この絶望と、「願い」のこういうかたちの組み合わせでもって、それを理解せんとしたということ、私たちが「新しい」という言葉、「いさぎよさ」という言葉を、ほんとうの深さで理解する最もすばらしい試みであるといえましょう。
     あの「天の岩戸」の暗闇を開いて、大衆の絶望の中に一線すじの光が、大空をよこぎりそめる時の美しさ、あれもまた世界に比類なき「新しさ」「いさぎよさ」の一つの表現のしかたであります。それは、人類を救うことの絶望から、深い願いをうちたてる弥勒の思惟の手の美しさに、まっすぐにそのこころをさし貫いています。
     さらにさらにそれは、飢えたるもののために、衣を脱いでいる菩薩の決意と、その身を断崖にひるがえす放下の行為、それで表現する強い筆の線もまた、この新しさ、といいますか、いさぎよさといいますか、身が寒くなるような新鮮さがそこにあるのです。それらのものが線として、百済観音のすべての線に流れてゆき、やがて藤原朝の線、『鳥獣戯画巻』の水の流れ、仮名書きの日本の書道のすべての字の線にまで、それらは、つながっているのであります。浅い川で流れる水のもつ「いさぎよさ」「軽さ」は、決して軽薄なものではなく、みずからの否定、みずからよりの脱落、そこには大いなる現実への絶望から生まれる、深い強靭きわみない願い、そこには、息をのむような深い行動と、鋭いものがかくれていたのです。今まで自分を支えていたもの、その断崖から手を放ったものが、刻一刻の落下、落ちていく速度、速度から生まれる、新しい自分の速度に驚くとでもいえましょうか。この戦慄、身をふるわすものの中に、初めて、この「新しさ」「すがすがしさ」といえるものがあらわれてくるのです。
     自分の中にまといついてくるものをかなぐりすてる、この脱落と脱皮の中に、ほんとうの新しさがかくれています。
     この美しさを日本人が捉え、それをかかるかたちで表現せんとした、一連の努力の試みの群れ、ジャンルが、そこにあるのであります。
     日本民族がかかる美を、かかるかたちで切り開いていることを、この大いなる出発の秋ときに、再び深く顧みるべきであると思うのであります。

    九 美術(その三)

     私はこの前の話で、アジアの民族は、西方の民族に比して、その生きるあやまちの深さに、一度正面から絶望しているところがあると申しました。しかも、その絶望のなかから、不可能のなかから、壮麗な願いを再びたてるのであります。人類のあやまちをとりかこむすべての現実の中に、論理的なものが厳としてある。そして、人類の動きの中にも論理的なものがまだ残っている。このことを果敢にも再びしっかり確認せんとする。ここにアジアにひろがっている大乗仏教のこころがあることを申しました。
     そして、日本の美の中にある清新なるもの、清く新しきものの中には、一度絶望的な死の中をくぐって、死にきっての後に、蘇生したものが初めて、天地を見た時に感ずる新鮮さがあることを顧みたのであります。
     かかる大乗仏教のこころは、大きな神話でもあります。壮大をきわめたスケールをもっております。それは大同の石仏のような巨大な彫刻に発展しました。中国の影響をうけた時代には、わが国にも奈良の大仏のような巨大な仏像をつくって、人間が、初めて、この宇宙に厳存する秩序の巨大なスケールに驚いたその驚きを表現いたしました。
     中国では、あの巨大な封建官僚国家が、芸術家を、その国家奴隷の機構の中にひきしめておける間は、もっぱらこの方向をたどっていきました。日本でも、その影響をうけていました。
     しかし、中国におきましても、芸術家は、かかる官僚的な奴隷機構に生きてはいけません。南方の自由な気風の国家構造が生まれはじめ、さらに、自由人が、芸術を、人間として描きはじめるにしたがって、新しいかたちでこの現実への信頼として大乗仏教の精神が、その姿をあらわしてくるのです。仏教も、北方に対して、南方仏教が生まれてくるのです。仏教宗団からさえものがれでる人々の中には、長安の乞食より生まれる布袋ほていのごときものが、新しい精神となり、それは中国では、弥勒仏(ミルフォー)として逸脱した仏として、禅宗の本尊となるのであります。しかし、それは、さきに申した中宮寺の思惟仏が、同じ弥勒仏であるように、同じ精神が貫いているのであります。あの山の中に住んで岩に詩を題した、寒山や拾得のあらわれてくるのもこの世界であります。それは、水墨の絵の題材に常にあらわれますが、寒山、拾得のこころには常に重いものから逸脱し、脱落し、脱出せんとする精神が、かかるかたちであらわれているのであります。
     かかる方向をたどって中国であらわれた牧谿という画家でありますが、この牧谿は、中国の画の批評家の仲間では、まことに評判が悪いのであります。前に申しましたように、「麁悪無比」とさえいわれているのであります。ところが日本では、この牧谿を、最高の画家として取りあげ、この伝統の中に新しい美の世界を探求していったのであります。
     藤原朝以後のわが国の機構は、南方中国の自由に似かよい、中国の南方精神を自分のものとして、自由に独自のものとして切り開いていけたことから、かかる精神が生まれたと思われるのであります。
     かの雪舟が「筆かるに馬遠夏珪などの筆の跡をもととして、御学び候が第一の稽古に候」といい、光起が「気運とは(気を運ぶということは)まづ描かんと思ふとき、気を身体に充満し、天地に至る心として(天地いっぱいにひろがるようなこころもちになって、そして)何心なく書出すをいふ」といっております。「夫画の要は(一番大切なことは)、軽の一字に止まるのみ」(軽みといふことにせんじつまるのである)「たとへば、真の極彩色をも軽の字を忘るべからず」、つまり、あの極彩色の赤青けんらんたる絵でも、この軽みの一字を忘れてはいけないと光起はいっているのであります。
     例えば『源氏物語』の絵巻物の絵をごらんになりましても、そこには、ある軽みがただよっています。白描、彫り画、薄かけの大和絵のすべてに、軽の一字、自由な速度ある、変化ある、滞とどこおることなき清新の運びのこころがけが、常にみなぎっておるのであります。
     狩野章信も、「行、真と修業つみ、種々工夫付執し得たる上は、又始めの草のかるきにもどる。画の要は筆画に止る。神妙二品は軽の一字たり」といっていますが、このいったん、行真ぎょうしんとつまり本格的な重いものに力を込めた後に、再び軽い草の世界に帰りくることが、日本の芸術では、常に語られるところであります。
    『無名抄』で、
    「されば如何にも、この体を心得ることは、骨法ある人との境に入り、峠を越えて後あるべきことなりけり」といっているのであります。峠を越えたならば、それは、百尺竿頭一歩を進めて……つまり百尺の竿をのぼりつめて、さらに進める時には落ちるほかありません。それは、下に落下し、放下することであります。
     芭蕉はこれを、「格に入り(本格的な練習をつんで)、格を出でざる時は狭く(その練習を忘れて自由なこころにならないと固くなる)、又格に入らざるときは邪詠にはしる(オッチョコチョイのうたいかたになる)。格に入り格を出て、はじめて自在を得べし」といっています。
     世阿弥は、この世界を「闌たけかえる」といっています。色彩をきわめ、変化を奢ったものが、やがて淡々と、草々たる減筆をもって空虚と、静寂を愛するにいたるところの、方向の転換があるのであります。この世界が、東洋の特徴であり、ことに日本で発達した注目すべき一つの姿であります。
    『源氏物語』の絵、――または、中古の絵巻物の絵をごらんになれば感じられることでしょうが、顔は「ひき目」「かぎ鼻」といって、眼は一本の線が引かれているにしかすぎません、鼻も一様な淡いかぎの線にしかすぎません。しかし、それは色彩をきわめているにかかわらず、その色の配合は、近代の高度な洗練されたカンヴァスに決しておとらない高雅な気品と、一言にしていえば、非常に敏感であるがゆえに、その調子が軽くひかえ目になっている感じであります。
     中国の絵に対して、大和絵といわれるジャンルは、すべてかかる高雅な軽みをたたえています。その線はそして、常に鋭いもの、繊細なものをかくしもっています。
     これがやがて浮世絵にのびていって、歌麿のあの女の絵になってまいります。あの大きな髪の一すじ一すじと、流れるような着物のしま模様は、流麗な彼特有な顔の線、肌の線と、ちょうど音楽のハーモニーのように融けあって、日本独特な美しさを描きだしております。
     この流れるような線と、『鳥獣戯画巻』の水の流れの線とをくらべてみると、決して、それが無縁のものでないことに気がつくことと思います。そして、それは『中務集』その他の仮名書きの流れるような字の動きと、まことによく似通っているのであります。
     この線が流れの衣紋として百済観音の衣紋の流れとなり、光背の頂きへもえあがり、きわみなくやさしい指のさきにまで、それはゆきひろがって快い階調をかなでているのであります。
     かく顧みながら、中宮寺の観音の簡単をきわめた髪の線、腕より掌、指にいたる目のさめるようなすらっとした光をごらんになるならば、日本にみなぎっている美の中の底にひそんでいる「軽み」がいかに深いものであるか、いかに高い調子のものであるかがわかると思うのであります。
     かかる日本の美を貫いたものを、私たちは、この現代において見失わないようにこころがけたいと存ずるのであります。

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